イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

自分のチンポに裏切られた悲しみ。

もうね。性欲の高まり、これはもうどうしようも出来ないんですよ。空腹、睡魔と一緒。抗えない大きな力。

でね?昨日の夜も元気にインターネットをしていたら、急にムラムラァーってキた訳ですよ。いや、急でも何でもないわ。虹裏ガルパンスレのエロ画像を見たからだわ。まぁ、オナニーしたくなってしまったものは仕方がないので、ベッドに直行しました。その時点で風呂にも入っていない、夕飯の洗い物もしていない、なんなら洗濯をサボりすぎて明日履いていく靴下もあるか分からない。みたいな状況でした。でも、オナニーしました。仕方がないね。生理的欲求は他の何よりも優先されるからね。端的に言えば今ここでオナニーしないと気が狂って死に得るけど、明日風呂に入っていない状態で出勤しても絶対に死なないからね。少なくとも俺自身は。

以前にも書いたけど、「仰向けに寝転がって右手でシコる」っていうのが俺のオナニーのスタンダードスタイルなんですよ。で、インターネットをPCからスマホに切り替えて今夜のオカズ探しに勤しむ。まぁ、今回はガルパンのエロ画像に欲情したから、オカズの選定も比較的容易でした。検索ワードはガルパン 剥ぎコラ」ガルパンは人気コンテンツだけあって素晴らしく質の高い二次創作が揃っているんですけど、昨夜は公式絵の剥ぎコラでイきたい気分でした。端から見れば特に面白味も何もない題材だと思いますが、もうね。チンコを弄り始めた時から接続無制限のインターネットとそこに良質なオカズが転がっていたゆとり世代のオカズなんてものはね、特に性癖に捻れが生じなかったらこんなもんなんですよ。特に面白味も何もない。でも、イくのは俺だから、別にいいでしょ。

世の中にはそういう男のニーズにピタリと応えてくれるサイトがあるものです。オカズ取得の合法性についてはここではあえて触れません。まぁ、インターネットだからね。仕方ないね。お?しかも、これは元の(コラされていない)状態の絵まで一緒に掲載されているではありませんか。これはイイ。イイですよ。やはり、剥ぎコラに限らず着衣状態と脱衣状態が同じ構図で並んでいるというのは非常に良い。「ああ……この娘、本当に服を着ていたんだな……」っていう気持ちになれて、より一層キモチよくチンポをシゴけるからです。いや、剥がれた状態だけとか、もとから露出している絵だけでも普通にイけるんですけどね。ただ、剥ぎコラっていうジャンルになると、剥がれ状態だけだと、剥がれたのか初めから露出狂なだけなのか、ちょっと分かり辛いかなぁ……って思ったりもしますよね。まぁ、自作できない雑魚の戯れ言なんですけど。

そんなこんなでイきました。昨日は朝時間がなくて出勤前オナニーで射精ができませんでした。一昨日よオナニーしなかったような気がします。なので、昨晩の射精は中々に気持ちが良かったです。実際のオナニーに入る前にPC前の時点から気分を十分に高められていたのが功を奏したのかもしれません。腹の上に拡がる半透明の白濁液。量も中々いい感じでした。ただ、少し水っぽかったのが気になりましたが。別に精液の状態で自分の健康状態を測れるとかいうスキルは持ち合わせてはいないのですが。あ、でもコーヒーを頻繁に飲んでいた頃の精液は明らかに苦味が強かったです。摂取したものの味が精液にも反映されるっていうアレはガチです。

少し話が逸れましたが、今回のメインはこれからです。ここ最近では比較的キモチよく射精ができたのでベッドに寝転がったままスマホでネットサーフィンを始めました。所謂、賢者タイムです。そうこうしている内に何故かニコニコ大百科立憲民主党のページに辿り着いていました。このWikipedia的なサイトのエロとは全然関係の無いページを読み始めるは自分の賢者タイムではよくあることです。そして、そのまま枝野幸男のページとかを見ていると、どうでしょうか。またムラムラとしてきました。こう書くと、俺が枝野幸男に欲情したみたいな感じになりますが、決してそうではありません。とりあえず、それだけは誤解なきようお願い致します(?)

まぁ、何で全然エロくないページを閲覧していてムラムラするのかと言えば、多分久しぶりのオナニーが気持ちよかったが故の余震のようなものだったのだと思います。で、その余震は徐々に「俺、まだオナニーし足りないのでは?いや、きっとそうだ」という感情に変わっていきます。そうと決まれば善は急げ。自分は再びオカズを求めてインターネットに潜り込みました。何と言ってもこの時点でまだ風呂にも入っていない訳ですから、迅速なオナニーが求められている場面です。

まずはpixivを漁りました。自分は普段からバランスの良い性生活を心掛けているので、エロ萌絵でもAVでも大丈夫です。大丈夫なのですが、昨日はとにかく二次元の気分でした。流石は天下のpixivです。野生の神絵師がゴロゴロしています。最近はイラストのR18差分はFANBOXなどの有料サイト行きという風潮が強まってきていますが、それでも無料で閲覧できる扇情的イラストが数多あることに「ああ、まだこの世の希望は失われていないんだなぁ……」とほっこりとした気分になれます。そして、程なくして今晩の二品目に相応しいオカズに辿り着きました。

そのイラストは以前にもオカズにしたことのあるイラストでした。イラストに限らず、以前よかった作品をもう一度見たいと思った時は探す過程がゲームみたいでまた別の趣を擁してきますよね。そして、見つかった時は見付けられた達成感と射精の快楽で二重で気持ちよくなれます。新たなオカズを見つけていくことも重要であり、欠かすことのできない活動ですが、以前ヌいたオカズをもう一度味わうという活動もまたオナニーにおいては重要なのだと思います。

さぁ、オカズは見つかりました。後はチンポをシゴくだけです。

 

…………!?

 

どうしたことでしょう?まるで射精感が昇って来ません。勃っていない訳ではありません。しかし、このままシゴき続けても決して射精には到達できないだろう。という感覚が手から伝わって来たのです。

とはいえ、この時点ではまだ自分に焦りはありませんでした。シゴき始めてから「ん?何か違うな?」ということはオナニーにはよくあることなのです。そして、その原因は大抵の場合オカズの選定ミス(その時の気分とオカズのすり合わせができていなかった状態)です。なので、昨夜の自分も落ち着いて別のエロイラストや、別のエロコンテンツページへと移動しました。

そうこうしていましたが、一向にオナニーを始められません。「コレ」と決めても初めと同じように勃ちはすれども射精には遠いという状態の繰り返しです。次第にエロとは全く無関係のページまで見始めました。これはよくない。どんどんと性欲が減退していってしまいます。ここで「じゃあ、もう今日はいいかな……」ってなれればよかったのですが、どうやら自分は自分でも認知でていないレベルで頑固だったようで、「一度ヤり始めたオナニーだろ?最後までヤり切れよ俺」と何故か意固地になって射精を目指すハメになりました。まぁでも、確かに「今ここでオナニーを止めてしまうと、何だか自分の中に消せないしこりのようなものを残してしまう」という気は確かにありました。なので諦めずに再びスマホと向き合ってこの場に最も適したオカズを探す作業を続行することにしました。

時間が無い時のオナニーは、とにかくイくことが重要視されます。間違っているような気もしますが、人間は実際に余裕が無い場面に陥るとそうなります。そうなると必然的にオカズにもパワーが求められていきます。料理に例えるなら分かりやすい味付けのものが必要なのです。例えば、マクドナルドのハンバーガーとかです。アレより旨いものが世には溢れているのにアレを求める時があるのです。そう。隠れた名店を探す余裕が無いときです。そんな時にマクドナルドは重宝します。マクドナルドにはマクドナルド以上の味はありませんが、マクドナルド未満の味もないのです。ここにマクドナルドの存在意義があります。

……マクドナルドと比べるのはあまりにも失礼なのですが、自分は自分が絶対にヌけるオカズを用意することにしました。最早、ベストなオカズを探す時間的、というよりは精神的余裕がありませんでした。自分が絶対にヌけるオカズそれは……

 

オクモト悠太先生の『Twinマキシマム』……!

 

これはですね。本当にいいエロ漫画なんですよ……!いや、オクモト悠太先生をマクドナルドハンバーガーのポジションに持ってくるのは失礼過ぎるんですけどね。いや、もうね。スゴいの。乳が。単行本の商品説明に「乳は乳屋」っていう文言を持ってきたワニブックスの編集さんのセンスもさることながら、本当にその説明に一切の偽りがないのがスゴい。本当に表紙から裏表紙まで全ページおっぱい。おっぱいないページとか奥付けくらいでしょってなる。すごい。おっぱいすごい。見てるだけで、いや、今書いてるだけでも股間の膨張を自覚できるの。すごい。チンコに血流が廻る、その鼓動を感じられる。

もうね。ヌけない訳がないオクモト悠太作品。わざわざ俺が紹介するまでもなかったんだけど、マクドナルドなんかと並べてしまったからね。謝罪の意味も込めて全読者にオススメします。「貧乳じゃなければヌけない……」「凌辱がないのはちょっと……」って人でなければ万人にオススメできる。本当に買おう?オクモト悠太先生の単行本どれか一冊買おう。な?

で、『Twinマキシマム!』は最新単行本『ちちまみれ』に収録されています。Twinの名が示す通りの3P。ちゃんと嫐の3P。嫐の3Pと嬲の3Pとを区別できないDMM.comとは格が違う。女の子はいっぱいいた方がいいけど、多すぎると一人あたりの印象が薄れがち……目移りもしちゃう……そんな貴方にちょうどいい3P。

はぁ、幸せか?

こういうのを幸せと言うのんか???

 

3Pは女の子の二人の関係にも注目が集まりますぅー!

 

『Twinマキシマム!』では、姉妹!

姉妹丼!!!

ああああぁぁぁぁ!!!!

あるんだぁ~!実際~!

 

で、この姉妹何が素晴らしいかって言えばキャラ立ち!ショートヘアーで活発な妹とロングヘアーで大人しめな姉!素晴らしい対比ですね。「王道が王道とされることには理由があるんだなぁ……」と深く頷かざるを得ません。対照的な姉妹がオクモト先生の作品のトレードマークたる巨乳を共通項にして見事に調和している。それが『Twinマキシマム!』!!!3Pと言えど決してどちらかがおざなりということはない姉妹丼のあるべき姿!

それが『Twinマキシマム!』!!!!!

 

なのに……!相変わらず射精感を昇って来させられずにいる俺のチンポ。恥を知れ。恥を。もう何か今思えばあの場で自分のチンポに小一時間説教を噛ました方がよかったのかもしれないと思います。ええ?情けなくないのかと。お前に血管が伸びている意味を考えろと。お前の組成が海綿体である意味を考えろと。素晴らしいオカズに出会った時に気持ちよくオナニーするためやろうがい!と。

はぁ……オナニーというかエロへの反応だけは自分を信じられていたのに。何の取り柄もない人間だけど、オナニーだけは(いや、俺よりもオナニー能力の高い人はごまんといるんですけど)……オナニーだけは俺の特徴足り得ていたハズなのに……!

 

唯一の救いは性欲でした。射精できそうにない状態でしたが、性欲だけはムンムンとしていました。むしろ、絶対的抜きのエースオクモト悠太作品を召喚したことで更に高まっていました。引くに引けない。ここで射精までいかないのはもう動悸が許さない。そんな感じでした。

結論から言うと射精できました。何かオクモト悠太先生とは異なる(快楽的天の中の)エロ漫画でイきました。イけたのだから、その漫画も素晴らしい作品だったのだと思います。ただ、作家名も作品タイトルも忘れてしまいました。まだ自分の中で『Twinマキシマム!』の位置にはない作品なのだと思います。でも、きっと素晴らしい作品のハズです。

そして、その後はWikipediaをぼんやりと眺めていました。流石にもうムラムラもしませんでした。やっと射精できた安堵感の方が大きかったのだと思います。エロへの関心だけが自分の唯一の真の友達。そのエロ心に裏切られたかのようなオナニー、そこからの射精で「ああ、よかった……裏切られてはいなかったんだ……!」という安堵感です。そのまま全ての家事を放り投げて眠りにつきました。

 

 

後一つ不安に思っていることがあります。それは「自分があの『Twinマキシマム!』でイけない体質になってしまっているのではないか」ということです。この不安を払拭する為に今晩のオナニーは本気で『Twinマキシマム!』でオナニーをしようと思います。ヌけないハズがないんだ……!

 

社会、行き当たりばったり、オナニー。

オナニーの話なんですけど、いつにもまして文章がぐちゃぐちゃしました。

 

最近、性欲が減退して来ていると思う。いや、性欲の減退というよりはオナニーの回数が減ってきている。エロコンテンツへの興味はむしろ増していて、年が明けてからまだ一月しか経っていないのに、明らかにエロコンテンツへの出費が嵩んでいる。「嵩んでいる」という言葉を使うと、まるでそれが悪いことのように聞こえるが、基本的にはいいことだと思う。ただ、自分も無限に金を持っているタイプの人間ではないので購入するコンテンツは吟味をした方がいいのは確かだ。とはいえ、ムラムラっとした衝動に任せてエロコンテンツを買ってそれでヌくというのは、ある意味もっとも贅沢で、気持ちの良いオナニーと言える気もする。

身に纏っていったエロコンテンツの量と反比例するようにオナニーの回数は減っていった。具体的には去年まではほぼ毎日やっていた朝の出勤前オナニーを年明け以降は殆どやっていない。試みても制限時間までに射精まで至れなかったことも数度あったので「出来ていない」とも言える。その理由は色々と考えられるが、一番の理由は年末年始の休暇で生活リズムが狂ったからだと思う。「狂う」と書くとやはり悪い印象が付きまとうが、要するにいつもと違う時間感覚、精神で生活をしていたというだけのことだ。出勤前オナニーとは「毎朝決まった時間に目を覚まし家を出なくてはならないという日々の中で、家を出るタイムリミットまでにイけるかどうかというある種ギリギリの闘いのようなオナニー」だ。それが休暇中では起きなくてはならない時間という前提がないので、出勤前オナニーという概念がそもそも成立しない。そういう日々が1週間超あった。期間にしてみればそこまで長くはない。しかし、どうやら、オナニーのサイクルを変えてしまうには十分過ぎる期間だったようだ。

出勤前オナニーをしなくなった(あるいはやらなくなった)ことには実はそこまで問題はないように思う。ただ「最近、朝オナニーしてないなぁ……」という自分自身のオナニーサイクルの変化への戸惑いくらいしかない。その戸惑いも戸惑った次の瞬間には忘れ去っている程度のものだ。むしろ、出勤前オナニーは時間との闘いになるが故、幾ばくか無理矢理に射精をするという側面を孕んでいる。これは恐らく、客観的あるいは科学的に見れば恐らく好ましいものではない。そう考えると、出勤前オナニーの習慣が途切れつつあるというのは自分の健康面としては良い変化なのかもしれないとすら思う。

「健康的なオナニー」というテーマでは自分は語れない。医学的な知識を持ち合わせないし、語る為に持ち合わせようとも思わないからだ。そもそも、たかだかブログなる個人的な趣味の文章作成の為に身に付ける知識など付け焼き刃にも劣るだろう。自分はそういうのは好まない。かといって、その後の自分の為にといって本格的に学ぼうとするほどの勤勉さも持ち合わせていない。だから「健康的なオナニー」についてここで語ることはしない。

ただ一つ、自分が語れる分野言えば、やはり自分のことだ。特に有益な情報を発信しないと決めたブログはどこまでいっても自分語りをするより他ない。そのようなブログに価値があるのかといえば確実に無い。しかし、価値がないことと、存在してはいけないことはイコールではない。価値あるコンテンツ(足り得る)ものしかインターネット上に存在することを認めないという考えの人の視界にこの文章が出現しているとも思えない。だから、自分は好き勝手に自分のことだけを書いてやる。それは自分の為だ。自分さえ良ければそれでいい。

宣言通り、自分のオナニーの話を盛大にする。現在、出勤前(朝)のオナニーの習慣がなくなりつつある訳だが、その分を就寝前(夜)のオナニーで補っているかと言われるとそうでもなかったりする。勿論、夜オナニーに耽る日もある。しかし、それは朝にオナニーをしなかったから補填として夜にオナニーしている訳ではない。ただ、夜にオナニーせざるを得ないほど性欲が高まったからしただけだ。朝もオナニーせず、夜もオナニーしなかった日もある。余り無いが確実にあった。「オナニー出来ない日はあってもしない日はない」とか何とか豪語したような記憶もあるが、遂にオナニーしない日が来たのだ。いや遂にというよりは、やはりこれも、ただそういう日が来たに過ぎない。

何故そういう日が来たのかと言えば、これも以前に述べたことだが、単純に「オナニーの優先度が下がった」だけだと言わざるを得ない。限りある日常の中の余暇、それを配分を決める際にオナニーではなく、別の何かに振られる比重が高まっただけだ。もっとも、自分はどちらかと言えば行き当たりばったりな人間で、自分自身でもそう有りたいと願っているフシがあるように思える。具体的に言えば「今日は仕事から帰ったらコレをしよう」と決めていても、いざ家に着いたら全く別のことをやっている、そういう事態が日常茶飯事という具合だ。オナニーをするにしても「今日はこのキャラのエッチイラストでヌく」と決めて始めても結局は全く別のAVで射精を迎えていたりする。そしてそれで満足することもあれば、射精後に「何でこんなモンでイってしまったんだ……」と後悔することもある。

ただ、平時に考えてみると、オナニーに限らず行き当たりばったりの生き方というのは実に幸福な生き方だと思う。行き当たりばったりとは、つまるところその時々で自分が一番したいこと、自分の欲望にもっとも即した選択を取れるということだ。勿論、目の前の選択肢の全てが“微妙”で「強いていうなら……」という感情で選ぶ時もあるだろう。しかし、その中でも自分がその時一番好む選択をしていける、それで生きていけるというのは間違いなく幸福だ。予定を立ててそれを忠実に実行していく生き方がある。しかし、立てた予定が嫌になることも多々ある。これは自分の経験上から言っている。しかし、行き当たりばったりに生きていれば嫌になったタイミングで止められる。予定に縛られることなく自分を楽な方へと導くことができる。

 

……勿論、現実には社会とかそういうのがあるからそんなに上手くはいかないが。

 

オナニーの話に戻る。オナニーは社会から切り離された行動……とは言い切れない。以前にも書いたが、オナニーのオカズとなるエロコンテンツが生み出されること、それが現れる市場、流通して自分の元にやってくるシステム、それらは皆社会だ。ただ、一度オナニーが始まればそれは社会(というか他者)から切り離されると思う。オナニーの始まりから射精後の数瞬までの間だけ自分はこの世界から完全に独立できる。

違う。“完全”というのは言い過ぎだ。スマホでオカズを探そうとすれば、バナー広告というまるで社会その物のような画が視界に入り込んでくる。出勤前オナニーで言えば、時間までにイけるかどうかという点はまさに社会に支配されている象徴のようなものだ。「オナニーは社会から切り離された、完全に自分だけの世界」そう思いたいだけなのかもしれない。しかし、後から思い返せばどんどんと粗が溢れ落ちてくる。

「行き当たりばったり」を意識すればするほどそれは計画的になっていく。行き当たりばったりに生きようとするのではなくて、ただ普通に、いつも通りに生きること。オナニーすること。それでいい。だから、エロコンテンツへの出費額が以前より増えても何も恐れることはない。それに反比例するようにオナニーの回数が減っていくことにも恐れることはない。むしろ、オナニーが好きだからと言ってオナニーに縛られる方が良くない。オナニーの回数の増減すらも自分が自分の思う通りに生きている証拠だからだ。

 

話がとっちらかった。やはり、日記的な文章はもっと早く書かなくてはならない。時間をかけて書いていると、書いている内に彼是と雑念が混じっていってしまう。あるいはそれも“行き当たりばったり”と喜ぶべきか。

早くも1月が終わろうとしている。身の回りも自分も完全に平時に戻った。オナニーのサイクルも徐々に通常運転に戻ってきた。今日も出勤前にオナニーをした。今はむしろ、出勤前にオナニー(射精)をする方が社会に縛られているのではないかと思っていたりもする。オナニーはしたい時にするに限る。そして、オナニーしていない時もまた自分の欲求に従って生きているのだと知る。

そろそろ、嫌になってきたので今回はここまで。

俺はモンスターハンターワールドがどうしようもなく憎い。

モンスターハンターワールドがどうしようもなく憎い」

今回言いたい事はたったこれだけだ。文の量もかなり少なくなると思う。だったらTwitterでいいじゃんという指摘をされるかもしれない。自分もそう思う。しかし、毎日毎日楽しそうにモンスターハンターワールド(以下:モンハンワールド)に興じている友人達に監視されているTwitterでこのことを呟くのはかなりリスクがある。ひび割れかけている関係が完全に二つに別れてしまいそうになる程のリスクがある。それだけの理由でこっちで吐き出すことにしたのだ。まぁ、このブログが友人に見られる可能性も決して0ではないのだが。

まず誤解なきよう言っておくと、自分は『モンスターハンター』(以下:モンハン)というゲームが嫌いな訳ではない。そもそもそんなにプレイしたことがないので「良い」とか「悪い」とかあまり言及する資格自体がないように思っている。とりあえず、「モンハンワールドはクソゲー」と貶めることが目的の記事ではないということだけ理解して頂きたい。

自分のモンハンプレイの経験は3DSで発売されていた『モンハンクロス』及び『ダブルクロス』を件の友人に誘われて少し嗜んだ程度だ。そして、その時のゲーム経験はそこそこ楽しかったもののように思う。一人プレイでフィールドに出てリオレイアとかに追い回されて何とか倒した経験も、友人に着いていって何か以上に強い白いドラゴンと戦ったのも良い思い出と言える。今思い返してそう言える程度には自分は「モンハン」というゲームを楽しんでいたのだと思う。だから『モンハン』というゲームないし作品に対しては今でもそんなに悪いイメージはない。

何故、モンハンワールドを憎むのか

では、何故「モンハンワールドを憎んでいる」のか。予め言っておくが、その理由は極めて幼稚だ。それは単に友達をモンハンワールドに取られたからモンハンワールドを憎んでいるという理由だ。改めて文章にすると、幼稚さがより一層際立つ。要するに「敬愛している年長の友人が新しい習い事を始めた結果、自分と遊んでくれなくなった。だから、幼い自分はその習い事を何か凄く悪いものだと思うようになった。」この心理である。だから、幼稚なのだ。幼子との差異と言えばこの心理が「幼稚な感情」だと認識出来ていることくらいだ。

かくして、20代後半の肉体に幼い子供の精神を宿して、自分は今日も自分から友達を奪っていった「モンハンワールド」に憎しみを抱いている。僕の友達を返してくれと。

その感情に意味などない

「モンハンワールド」を憎み続けるのは自分の勝手だ。ましてや、自分は今初めて「モンハンワールド」への憎しみを自分の内から外に出した。「モンハンワールド」を憎むことで特に誰かに迷惑をかけているということはないと思う(恐らく、多分)。しかし、「モンハンワールド」を憎むことは自分にとっても何の特にもならないことだ。ただ疲れるだけの、精神エネルギーを無駄にするだけの感情の動きだ。そして、何よりいくら自分が「モンハンワールド」を憎んだところで、友達がモンハンワールドから自分の下に戻ってきてくれる訳ではない。だから、この感情は対外的には全くの無意味だ。

解決策を探る。

では、自分は一体どうすればいいのか。解決策を探ってみる。

  1. 自分もモンハンワールドをプレイする。
  2. どうにかして友達に合法的にモンハンワールドを止めさせる。

あまり数を思い付けなかった。パッと出てきたのはこの二つの案だけだ。両方の案の有効性を見ていく。

まず1.これは最も建設的というか、前向きな案だ。確かに自分も一緒にモンハンワールドを楽しめばいい。正直に「俺もやる」って言えばあれこれ指南しつつ一緒に遊んでくれるだろう。彼らも何だかんだでまだそういう優しさは持ってくれているはずだ。

ただ、問題点として自分がそんなにモンハンワールドをやりたくないという点がある。これは致命的な点だ。モンハンワールドがやりたかったのなら、初めからやっている。何故、しなかったのかと聞かれれば他に、モンハンワールドよりもしたかったことがあったからだ。友達と離れたくないという一心だけでさしてやりたくもないゲームをプレイすることが果たしてできるのだろうか。恐らく「するだけなら」可能だろう。だが、そういう「実はそんなにやりたくない」という気持ちはプレイにも現れてくるし、いずれは「頼まれてもやりたくない嫌なこと」になる。逆にそういう感情を抱いているヤツを連れて狩りにいくのは友達にとっても御免こうむることだろう。

そして、もう一つの懸念がある。それは例え「そんなにやりたくない」という気持ちを封印してモンハンワールドを始めたとしても、既にプレイをしている友達との間には歴然たる差がある。それでも、友達は自分が彼らに追い付けるとまではいかなくとも、戦力としてカウントできるところくらいまでは支援をしてくれるだろう(と信じている。信じさせてほしい)。友人間で未来永劫ずっとモンハンワールドがプレイされるのならそれでいい。しかし、そうはいかない。10人にも満たない人間の輪の中にも流行り廃りというものがある。自分が彼らに肩を並べられるようになる頃には、彼らは既に“別の”モンハンワールドに旅立っているだろう。というか、これまでもそういう事態は幾度となく経験してきたように思う。後からブームに着いていって、自分の中で軌道に乗った頃には周りには既に誰もいない。傍目にはさして上達していないゲームの腕前と自分の身一つがただその場に残されているだけだ。これは余りにも寂しい。正直言って、モンハンワールドに友達を取られた現状よりも辛い。

以上の点から比較的前向きと思われた1.の策は取れない。では、2.の策はどうか。これはかなり暴力的というか無理矢理の要素を含んでいる方法だと思う。“合法的”としてみたが、何かにハマっている人間をその何かから離すことはどう考えても暴力というか『悪』の要素が付きまとう。また、そもそも自分にそんなことが出来るのかという疑問が残る。合法的に友達をモンハンワールドから引き離すこと、これはいわば彼らをモンハンワールドに飽きさせればいいということになる。自分にそんなことが出来るとは到底思えない。1.の策と関連してくるが、要するにモンハンワールドに代わるブームを起こすことだ。それも自分主導で、なおかつ自分がやりたいことを。本職バリバリにマーケティングをしている人間ならいざ知らず、一番の友人からも隠れるようにコソコソ・シコシコと駄文を捏ねているこんな自分のような人間が、この難易度が高すぎる計画を成就できる訳がない。そもそも、失敗すればさらに友人との関係は冷え込む。冷え込むだけならまだしも、彼らとの間に修復不可能なクレバスがざっくりと口を広げてしまうだろう。そんなリスクを背負い込むことはとてもできない。勇気がない。

ブームの話をもう少し。結局は僅か数人のグループであってもイニシアチブというものがあるのだ。イニシアチブを持っている人間がブームを興せる。彼だけ(イニシアチブを取れるのは一人とは限らない)が自分の“好き”をグループ内に流行らせることができる。本人に圧力をかけてやろうという意思は恐らくないだろう。ただ、自分の好きなことを始めてそれについてグループ内で話しているだけだ。それだけでその他大勢がそれをブームにしていく。いわば無自覚の同調圧力だ。そうして、グループ内の政治というのは回っているのだ。

イニシアチブを取れる人間とはどういう人間か。それはコミュニケーションに長けた人間だ。この場合のそれは一般的なグループ外のコミュニケーション能力を指さない。グループ内でのコミュニケーション能力だ。つまり「コイツはこういえば味方になる」「コイツを味方にすればアイツは自然とついてくる」など、そういう部分を読み取る力のことだ。その能力に長けた人間がイニシアチブを取れる。

翻って自分はどうか。まぁ、さっぱりだと言わざるを得ない。元来からあまり人の心情を考えることが出来ない質だ。そして、あまりできない、不得手だからますますやりたくなくなって、やらなくなった人間だ。それはグループ内の人間にも知れ渡っていると思う。それでも、グループを追い出されたりしないところに友達というものの有り難みが詰まっているのだと思う。そう、だからある意味自分が今モンハンワールドに友達を取られて寂しい思いをしているのは必然なのだ。ある意味、昔からのよしみで、仕方なしで属させ続けてもらっているグループで、その中で最もイニシアチブから遠い人間、それが自分だ。そんな人間が自分の好きなことを皆にもやってもらおうなどと烏滸がましい。図々しいにも程がある。身のほどを弁えろ。

と、彼らは優しいからそんなことは口には出さない。だから自分もその優しさに大人しく甘えておけばいい。出過ぎた真似をせず、大人しく、頭を低くして孤独に耐えながらモンハンワールドのブームが終わるのを待つしかないのだ。

結局は自分自身の問題だから

如何にしてモンハンワールドから友人を取り返すかばかり考えてしまっていた。しかし、考える前からそんな方法などないこと、あっても自分には実行不可能なことは分かっていた。分かっていたが、文にしてしまった。結局は友達を如何にして取り返すかではなく、友達を取られた状態の中で如何にして自分の精神を健全に保つかなのだ。他者の動きはコントロールできない。特に自分のような人間にはそのような器用さはない。だから、他者の動向に依らず自分を見失わないようなそういう考えを持った方がいいのだ。少なくとも、自分のような人間は。それも分かっていた。分かっていたが、分からないフリをし続けていた。というか、今もしている。分かっていても、分かりたくないことがあるのは確かなのだ。許して欲しい。

友人関係がある。その中で自分の好きなことをブームとして流行らせる人間がいる。興ったブームに対して追随することで精神の安寧を得る人間がいる。そして、そのどちらも出来ない自分のような人間がいる。モンハンワールドが悪い訳ではない。というか、モンハンワールドが原因なのではない。グループ内でのコミュニケーションが恐ろしく上手くできない自分が悪いのだ。モンハンワールドはそのことを再認識させたきっかけに過ぎない。

だから、解決策というのは自分の精神の有り様を変えることだろう。言い換えれば考え方を変えるということだ。しかし、出来るのだろうか。自分は現状の辛さと現状を変えようする努力の辛さとなら、前者の方がまだマシと考えてしまうような人間だ。何というか、(これは普段意識している訳ではない)が自分自身を変化させることがこの上なく嫌いなのだ。「自分を変えよう」などと言うスローガンは全くもって無責任だと思う。子供の内ならまだしも、この歳になってから、自分を変えるなんていうのは死ぬほど難しい。それこそ、死んでやり直したい方が早いレベルの努力を有する。「努力しない内からできないとか言うな」?努力出来るならとうにやっている。努力しようと試みたこともある。しかし、それでも“出来ていない”のだから、もはや自分にとって努力は意味がない。

孤独に耐えられるか

努力に対する懐疑はまたの機会にしたい。今はこのどうしようもない寂しさをどうするかの方が重要だ。繰り返すが、寂しさは自分自身の問題という自分の認識は変わらない。自分自身の問題とした上で、寂しさを感じないような振る舞いの出来る(あるいは寂しさを感じないような考え方のできる)人間になる努力は不可能という結論にも達した。ともすれば、もはや寂しさを受け入れるという方向しか残されてはいない。カッコつけていうならば「孤独を愛する」か。

そうだ。孤独だ。孤独に耐えられるなら、孤独を苦としないなら、いくら友達をモンハンワールドに奪われても何のダメージもない。そもそも独りでいることには何の問題もない。独りで打ち込める趣味だってある。なるほど、初めからそう考えればよかったのかぁ〜

 

 

 

……そんな訳もない。やはり、孤独というのは辛いものだと思う。感じ方は人に依るが、少なくとも自分は辛いと感じる。だから「孤独が悪いことのような風潮なのは人々が孤独になると困る産業が流しているデマ」という力強い意見は力強過ぎて、自分には直視出来ない。「孤独の何が悪い?」と言われれば、「別に悪いと言ってない」と返す。そうだ。別に孤独が悪な訳ではない。ただ、寂しいだけ。ただ、寂しくて辛いだけなのだ。「孤独でいい」という人は強すぎて、とても参考に出来ないと、そう思う。

孤独に耐えることに意味とかない

寂しさとそれに起因する辛さは結局のところ今の自分にはどうすることも出来ない。今はそう結論付けざるを得ない。努力はどうせ出来ないが、少しだけ元気な日は孤独に向き合ってみようと思う。モンハンワールドを憎むのではなくて、モンハンワールドに筋違いの憎しみを向けた自分を憎もうと思うのだ。しかし、所詮は思うだけだ。実際に向き合うかは分からない。Wikipediaの孤独の項目によると、歴史上ではしばしば孤独が名画や名文を生んできたとあったがその何億倍もの数の何も生まなかった孤独があったに違いない。恐らく、自分の抱えている孤独もその何億倍もの方の孤独だ。自分には孤独を受けて、孤独に耐えて何かを生み出せるような、才覚も、タフさも、根性も何一つとして持ち合わせていないのだから。

寂しさに耐え続ければいずれ何かを得られる訳もない。何かを得たいから寂しさに耐えようとしているのではない。耐えるという選択肢しか取れないから、仕方なく耐えているのだ。というか、本当に耐えられていたらこんな泣き言みたいな文章は書いていない。耐えられないから、少しでも楽になれそうな気がしたから、こんな泣き言を指から発してるのだ。

1月1日元旦から3度もオナニーをした。

年が明けた。「だからなんだ」という気持ちでいっぱいになるのは毎年のことだ。そもそも、新年がそれほどめでたいことかは常々疑問に思っている。確実に、着実に「死」へと歩みを進めているだけではないか。それを言うと、そもそも「死」が忌まわしいものなのかも怪しいものだが。

 

OK。この話は止めよう。やっぱり、新年のおめでたそうな雰囲気に「ちょっと違うんじゃない?」っていうのはクソダサいわ。何かこう「一般大衆と違う視点持ってる俺カッケー」みたいなクソ寒い感じがギュンギュンとする。そういうのはもうそろそろ卒業したいと思う。

とはいえ、一つだけ言いたかったことがある。それは「年が明けたから何かが変わる訳ではないよ」ということだ。今のところは、去年と変わらずに生きていく所存だ。

 

やはり、オナニーの話をしたい。昨年は最後に更新した後は駄文未満の書きかけの文章の羅列をいくつか産み出していた。さらに「書きかけの文章ばかり増えていることを嘆く」というテーマで書き始めたりもした。もちろん、それも書き上がることなく書きかけの仲間入りを果たした。頃合いを見て消そうと思う。出したものは消そうとはあまり思わないが、産まれなかったものは整理の意味でも割と消したくなる。後、やっぱり文章っていうのは思い立った思いが生きている内に書いてしまわないとダメなんだなとつくづく思う。自分の中で巻き起こったブームや自分の心の動きについて書いてみようとしても、時間が掛かりすぎると心の方が別の動きに移っていってしまう。鮮度なんだ。時事について書くなら勿論のこと、自分について書くにしたって鮮度という要素は無視できないのだ。

オナニーの話に移れない。移る。年末年始は実家に帰っていた。家族の目があるからオナニーができなかった……かというと、そんなことはない。むしろ、実家を出る前は実家でオナニーをしていたのだから、何も問題などない。一週間ちょっとの間元の状態に戻っただけだ。

質の良いオナニーが出来たかというと、それは少し難しかった。やはり、自分一人しかいないワンルームとは違う。多少ではあるが家族の存在が、脳では気にしないようにしていても身体では気になってしまう。微妙に集中できなかったと正直に告白してもいいかもしれない日々だった。

しかし、繰り返しになるが、かつてはそういう環境の中でオナニーしていたのだ。むしろ、自室でのオナニーを家族に目撃されたことも二、三度ある。幸い、何れもまだ服を脱いだだけの段階だったので軽傷で済んだが。後、家族共有のノーパソに蛯原友里アイコラを保存していてそれを母親に見られそうになって、慌ててノーパソ抱えて家の中を走ったこともある。今思い返せばあの態度は絶対バレてたと思う。

家族の存在、それよりもよりオナニーの妨げ(という言葉を使いたくはないのだが)となったのは、自室のベッドだ。アパートの寝台の上に敷き布団を敷いただけのベッド(笑)とは比べるのも失礼な正真正銘のマットレスだ。このベッドに16年くらい体を預けていたのだ。単純に気持ちが良い。体を横にするだけで疲れがみるみる取れていき、気付けば夢の中だ。素晴らしいベッドだと思う。俺の知ってるベッド殆どコレとビジネスホテルのヤツくらいだけど。

まぁ、そんな素晴らしいベッドだから、オナニーしようと寝転がっても快楽より先に睡魔に堕とされてしまうという訳だ。それはそれで至福でした。本当にありがとうございます。

そういえば、自分のオナニーのスタイルについて書いたことはあっただろうか。自分の右手でしかイけないという話はしたが、それ以外はどうであったか。もしかしたら繰り返しになるかもしれないが、この文章しか読まない人もいるかもしれないので改めて書いておく。既に知っている人はどうかご容赦を。

基本的な自分のオナニーは寝床に仰向きになって、自分の右手で自分のモノを扱いて果てる。イく瞬間までの過程の段階ではうつ伏せでモゾモゾやったり、脳内イメージだけで精神を昂らせたりなど色々やったりもするが、原則としてイく時は上記の姿勢になる。

後はこの方法よりも頻度は少ないが椅子に座った状態で扱いてイくこともある。このスタイルは主にPCでエロコンテンツに触れている時に昂って、そのままオナニーに移行する時の形だ。しかし、基本は前者の仰向けオナニーだと思って頂いて問題はない。

後、服装は全裸が多い。オナニーを覚えてしばらくは全裸にならないとイけなかった。今でも全裸でするのが一番気持ちが良い。肌全体を寝具の柔らかい感触に撫でられるのも非常に好ましい。最高だ。

質の良い寝具は質の良いオナニーを生まないのか。いや、そうではない。自分の場合はただ単純に「いくらでも眠っていていい」という休日の安心感に日々社会で磨耗していた精神が耐え切れなかっただけだ。もっとも、普段から少しの苦でも避けようとする人間なので、そこまで磨り切れるほどの思いはしていないのだが。

オナニー自体は割りとしっかりやっていたと思う。帰省中オナニーしなかった日は1日くらいだったと思う*1。何ならその日の昼過ぎには実家を発たなければならない最終日ですら、10時くらいにイったりしてた。

個人的に特筆しておきたいオナニーのエピソードがある。新年2日目に自分は出掛けた。電車に揺られて街に出て、買い物客で溢れる商業施設に入ったところで便意を催した。「家でしてくりゃよかったな……」と後悔しつつ、やっと空いているトイレを見つけ、排便をした。したところで、ふと気が付いた。

「コレ、何気に新年初ウンコだな……」

その瞬間また別のことが脳を過った。

 

「そういや、昨日は3回もオナニーしたな……」

この瞬間、「排便回数1 射精回数3」という2020年の自分の記録を意識してしまった。今は流石に違う(それ以降排便も射精も回数はカウントしていない)が、1/2の時点では2020年、ウンコした回数より射精した回数の方が3倍多い男だったのだ。その事実に気付いた時、何と言うか非常に感動していた。

「日に3度のオナニーなど普通だ。わざわざ文章で報告することじゃない」と言われるだろう。確かにそうだ。一般的な視点で言えば射精回数が排便回数の3倍になることなど、全然あり得る普通のことだ。しかし、自分はあくまで自分の心の有り様の記録として文章を書いている*2。その時、自分は自分に感動したのだ。

「ああ、俺ってやっぱりオナニー好きなんだな」

と。そういう再認識が出来たことがよかったのだ。便意と性欲、どちらも人間の根源的な生理的欲求だ。その同じ生理的欲求の中で回数という限られた要素のみではあるが、性欲が便意に対して優位を付けたのだ。この事実が自分としてはとても誇らしいと思うのだ。

もう一つ素晴らしい点がある。それは2日に排便をするまで、元日に3度オナニーをしたことに気付かなかった点だ。要するにオナニーをした元日当日は特に意識をすることなく、ただ性欲の赴くままに3度のオナニーをしていたのだ。

意識していなかったが故に、自分はこの3度のオナニーを覚えてはいない。何をオカズにしたのかも今となっては全く分からない。ただ「3度した」ということだけを覚えている。それほどに無意識なオナニーだった。そして、その無意識さに大きな意味がある。

日に3度、あるいはそれ以上の回数のオナニーも、する“だけ”なら存外に容易い。しかし、それはしようと思わなければしない。つまり、思考や意識という人工の要素がなければなし得られないのだ。

それに対して自分の元日のオナニーはどうか。極めて無為な自然である。自然と自分の中で沸き上がった性欲のなすがままに扱き、果てていた。それこそ後にはオナニーしたという事実だけが残されたような、そんなさらりとした流れるようなオナニーの日だ。

意識をして質の高いオナニーを実践することと、覚えていないほどの無意識下で自然にオナニーをすること、どちらが良いのかは分からない。ただ、今の自分は意識して回数を重ねるオナニーよりも、忘れてしまうほど自然なオナニーの方が価値があるのではないか。と、少しだけそう思っている。

自分が冒頭のように新年をさも意味ありげな区切りとして扱うことに懐疑的なのは自然に反しているからだと思う。「年が明けたから何かを頑張る、年が明けたから去年とは違う自分を目指す」。そういう考えは間違ってはいないと思うが、ただ賛同できない。それよりも、今回の自分のオナニーのように、年が明けても、明けなくても、ごく当たり前のようにずっと続けていたことを続けていくこと。そういう自然さをより尊いことのように思う。

 

オナニーの質という点では忘れてしまうようなオナニーはあまり好ましいものではないのかもしれない。しかし、年明けの実家において何物にも気兼ねすることなく、ただ己の性欲のみに従って、日に3度もオナニーが出来たことはとても幸福なことのように思える。それこそ、自分にとっては初夢の一富士二鷹などにも負けずとも劣らない瑞兆なのだ。めでたい。

 

2020年、少なくともオナニーに関しては絶好のスタートを切れたことをここに報告して今日は終わりにします。

*1:それでも、“しなかった”からクリボーの教えには背いてしまっている

*2:それ以外の理由もあるが

ポケモン剣盾の感想がいつの間にかオナニーの話になってた。

タイトルの通りです。前半が「ポケットモンスターシールド」をプレイした感想で、後半がポケモンの女キャラと自分のオナニーとを無理矢理結び付けた話です。ちなみに今さら解説するのも恥ずかしいのですが、「ポケットモンスター」の本来の意味は男性器です。一応、念のため書いておきます。なお本文中に「ポケモン剣盾」という言葉が度々出てきますが、これは「ポケットモンスターソード・シールド」のことです(これも念のためです)。後、本文では書きそびれましたが、自分はポケモンにハマるとズリネタが女性ポケモントレーナーになる確率が高くなります。いい傾向だと思っています。

 

 

ポケットモンスターシールド」を買ってクリアしたので、ポケモンの話をする。いや、オナニーもしてる。今朝もした。何か適当なJKモノのAVのサンプル動画で射精した。いつにも増して出勤時間が差し迫っていたのと相まって酷くインスタントな射精だった。でもイけたのだから、少なくともその瞬間の自分は幸福を感じていたのだと思う。とはいえ、思い返すと感傷も何もなくて非常に現代社会に統制されたオナニーだった。

 

股間の方ではないポケットモンスターの話をする。まず感想としてはストーリーがあっさりしていて良かったと思う。ストーリー(=シナリオ)があっさりしているというのは短い、味気ない、ボリューム不足とマイナスに捉えられがちだ。しかし、ポケモンというゲームはクリアしてからが本番だ。正直なところ変に長くて途中で進めるのが億劫になるようなこってりストーリーよりかはあっさりし過ぎたストーリーの方が数段マシだと思っている。ましてやここ近年のポケモンは基本的に一本道で数十メートル(というのは流石に誇張だが)進むごとにライバルキャラを初めとしたNPCに呼び止められてイベントに巻き込まれる。「もっと自由に冒険させろや!」と思うが常に開発サイドの想定通りにシナリオを消化させるのが昨今の主流であり、これら変えられる気配がないので嘆いても仕方がない。

その点を踏まえると剣盾のあっさり気味なストーリーは生きてくる。つまり、面倒でレールをなぞるだけのシナリオから一刻も早く解放されるようになっている。これは良いことだと思う。攻略の進め方という点ではあまり自由度は高くない(それでも好きなポケモンで攻略できるという点でポケモンの自由度はRPGとしてはかなり高い方だと思う)が、自由になれるまでの時間が短いという点での自由度はかなり高かったんじゃないかと思う。特にUSUM*1と比べると。

後、自由度で言えばワイルドエリアの存在も大きかった。これは完全なる寄り道要素で誘惑に打ち勝てさえすればほぼ一切無視してゲームクリアまで進められる。まぁ、多分多くの人がホイホイ釣られていったと思うが。勿論、自分も釣られて暫くストーリーの進行が滞った。ある意味究極の足止め要素たるワイルドエリアだが、これも別に探索を強制される訳ではない。あくまで探索するのは自分の意思だ。だから、足止め要素ではあるがストレスには感じられなかった。そして今はストーリーが終わって何の憂いもなく存分に原野をチャリで走り回っている。

感想はこんなところか。他にもあるが、不満点は挙げても仕方がないし、文句ばっかり言ってる自分の存在が浮き彫りになるのも嫌なので挙げないことにする。後、そもそもまだクリアしてからのプレイ時間自体がそんなに長くないので、話せる感想がストーリーについてくらいしかない。このままやる気、というよりかは興味が続けば対戦にも手を出してみようと思う。なお、自分のポケモン対戦ははっきり言って下手の一言である。それでもいいやと思えるようになることを目標に──この話は今はしない方がいいのでしないでおく。というか、また目標を立ててしまうと先のオナニーの質の時のような失敗を繰り返してしまうだけだ。ただ、ポケモン対戦は下手の一言だが、思うことはあるのでその話はどこかでしたくなるかもしれない。

まだ話せていない感想があった。新ポケモンについてだ。デザインはストーリー以上に良し悪しが個人の感性に依るのでそれは話さない。一方、ポケモンの数が増えるタイミングで個人的に意識していることもある。それは“どくタイプ”ポケモンの数だ。自分はポケモンのタイプの中ではどくタイプが一番好きだ。なので、毎回ポケモンの完全新作が出る時には嫌でも新しい毒ポケモンを気にしてしまう。今回の新規毒タイプポケモンは自分の見落としがなければ3種類。内進化前が1、伝説が1だ。正直言って少な過ぎると思う。せめてもう1系統は欲しかった。ただ、初の電気タイプ複合のストリンダー(エレズン)、色々と活躍が目覚ましいムゲンダイナとキャラは立っていると思う。ストリンダーは毒パーティーを組む際には是非入れてみたいなと思う。ムゲンダイナもシナリオの終盤に唐突に出てきた時には「君、ポリゴン少なくない???」とかテキトーな感想をぶつけていたが、捕まえてみるとまさかの毒タイプだった。完全に此方側の人間(ポケモン)だった。更に彼のお陰でダイマックスレイド*2がやっと「作業と呼べるレベル」にまで昇華された。それまでは横で死んでいくNPCイーブイとかソルロックを眺めるstayしがちな遊びだったので、この変化は大きい。まさにムゲンダイナ様々である。そろそろ俺もメタモン出したい。

 

と、まだまだ深くハマれそうなポケモン剣盾だ。当分は飽きることなく遊べると思う。というか、ポケモンは暮らしに根付くのものなので、しばらくはポケモンしかしないと思う。良いことだ。

 

 

 

まぁ、オナニー絶ちはあり得ない訳だが。シてました。週末ガッツリポケモンやってるように見せ掛けて、普通にオナニーにも合計3hくらいは割いていました。ポケモンしたい欲も限りなく生理的欲求に近いが、やはり正真正銘マジモンの三大欲求である性欲には勝てなかったようだ。ちなみにポケモンは5歳のクリスマスからやってるんで、オナニーより長く続けてることになる。ポケモン以外でオナニーより長く続けていることは呼吸と歩行くらいしかないので、これは自分を構成する要素としてはかなり上位に来ると思う。とはいえ、前述の通り対戦の腕前はろくすっぽだ。長く続けているから特に身になっているという訳ではないのだ。なぜなら、プレイが断続的だから。飽きて他のゲームをやっていたことも多々ある。今この文章を書いている段階になって「中学の頃からずっとポケモン対戦に真剣に取り組み続けてたら、今頃めっちゃ上手くなってたんじゃね?」とふと思ってしまったが、過ぎ去った時間は戻らないのでもう考えない。

変わりにいつの間にか絶え間なく続けていたオナニーの話をしよう。やはり、自分にはこれしかない。せっかく、ポケモンの話から始めたのでポケモンとオナニー(性欲)の話をする。ここで自分が重度のポケモナーでDMM感覚でポケモン図鑑を捲ってオカズを探しているだとか、ルギアに欲情してヌいた結果自分がポケモンなのではないかと錯覚したとか(実際にそういう人のブログを読んだことがある)だったら多少話も面白くなるのかもしれない。

(こういう書き方をすると、当のポケモナーの方々に対して大変失礼なのだが承知の上で書いている。気分を害されたポケモナーの方はどうぞ「俺のオナニー(性的趣向)は見せモンじゃねぇ!」と怒鳴り込んで頂いて構わない)。

しかし、前にも少し触れたが自分の性的趣向は極めてノーマルなのでそんなに面白い話にはならない。いくらオナニー以前からポケモンに触れているからといっても、欲情の対象がポケモンと言う訳ではないのだ。

では、ポケモンと己のオナニーをどう結び付けるのか。簡単だ。ポケモンの人間キャラだ。ポケモンには人間の女キャラも多数出てくる。特にBW*3以降(或いはそれ以前からかもしれない)は彼女らの女性的な魅力を前面に押し出したメディア展開、商業展開も見受けられる。そして、その傾向は年々強まっているように思う。そう、自分のような幼少期からポケモンに慣れ親しんでいる世代が年齢を重ねるのと比例するようにだ。そして、今夏にはこの展開の行き着いた先とでも言えるアプリゲーム「ポケモンマスターズ」がリリースされた。「モンスターより人間の方がカネになる」は案外マジなのかもしれない。なお、残念ながら自分はゲーム部分があまりにも肌に合わなくて3日で飽きて、10日でアンインストールした。

勿論、最新作剣盾にも性的な魅力に溢れる女キャラは多数登場する。その一部は発売前から公式サイトで紹介されており、姿が世に出た瞬間からインターネットにおわす春画絵師の方々によってあられもない姿を晒し続けている。エッチイラストは今もまだ生産され続けているはずなので、興味が湧いた方はpixivの「ポケモン人間絵」でタグ検索をするといい。非常に貴殿のポケットモンスターが元気になることだろう。旬のエッチイラストはまさにげんきのかたまりだ。春画絵師の方々には感謝している。俺がアラブの石油王ならげんきんのかたまりとかお贈りしたい。

ポケモンキの人間キャラ重視政策の波に乗って、個人的に魅力を感じるポケモンのキャラについてでも語ろうか。と思ったが、特にいなかった。「シコった回数圧倒的ナンバーワンはこのキャラ!」っていうのはいないのだ。自分のオナニーの統計を取っている訳ではないので、正確なところは分からないが多分まんべんなくオカズにしてると思う。いや、多分ネット上で剥かれている回数が多いキャラ順とかそんな感じだと思う。だから、特に激しいキャラ愛とかはない。あくまでAVとか風俗とかに近しい世界だ。ぶっちゃけ、ヌくに当たってはエロければそれでいいとさえ思っている。。となると、いよいよ「ポケモンのキャラじゃなくても別にいいやん」となるので、もう少しポケモンのキャラの話をする。

せっかくの剣盾発売なので、剣盾の女キャラを一人取り上げてみる。メロンさんだ。


f:id:Lyttonblog:20191127080914j:image

メロンさんはシールドにのみ登場するジムリーダーの一人で、その存在は発売まで伏せられていた。そして、いざ解禁されたらムチムチ・人妻・ママ・BBAという属性がヌく為にインターネット回線を繋いでいるような人々(の一部)にクリティカルヒットをしたらしい。現に前述のpixivのポケモン人間絵タグを少し覗いてみたが中々の剥かれ具合であった(まぁ、それでもTwitterだとライバルキャラマリィの方が多く流れてくる印象ではある)。これはインターネット上では既に多くの人が指摘していることの繰り返しになるのだが、二次元キャラ愛好家のキャラに向ける感情はここ十年くらいで「俺の嫁」から「ママー!」へと変化しているらしい。確かに、このご時世に甲斐性なんて求められたら堪ったものではないので大いに頷ける。やはり、男の理想とは「ヒモ」であり、それでいて決してヒモに劣等感を感じさせない女がいいオンナなのだと思う。誰も口には出さないが、本心ではそう思っているハズだ。

話が逸れたが、メロンさんは昨今の「ママ需要」に見事に応えたマーケティングの成功例みたいなキャラだ。まぁ、実際のところゲーム内のメロンさんはママというより「かあちゃん」ないし「オカン」と言った方が相応しい感じの女傑キャラだったりするのだが。後、アップになるとシワはバッチリ映るし、画像では見切れている下腹部から太ももにかけての太り方のリアリティーは中々にすごい。(腹は妊娠中という説を聞いたが、真偽不明)。

取り上げておいてなんなのだが、そんな彼女であっても前述の通り自分は特別愛着を持とうとはしていない。正直なところメロンさんにはそこまでピンポイントというか、クリティカルな性的衝撃を受けてはいないのだ。現に自分はまだ彼女をオカズにしていない。「クリティカルな性的衝撃」とは俗に言えば「チンコにクる」という意味だ。ここでの自分はそういう意味でこの言葉を使った。

自分がメロンさんに「クリティカルな性的衝撃」を受けていない理由だが、恐らく彼女の造形がリアル過ぎるのだ。リアルな中年女性の肉体、だらしなさ、あついしぼう。そういう要素が強すぎるのだ。いや、あの下半身の太ましは脂肪だけに依るものではない。骨格。完全に骨格レベルでガタイが良く感じられる三次白人女性のそれなのだ。それが多分自分には性的魅力として働かなかったのだと思う。

メロンさんの造形が中年の女体としてリアルなのかどうかは自信がない。ただ、自分は見た目が全てとも言える二次元女性に対しては極めてわがままな要望を無意識の内に抱いている。具体的には「ムチムチとした肉感があった方がいいがデブはNG」とか、「胸は豊満な方がいいけどデカけりゃいいと言わんばかりの奇乳はノーセンキュー」とかだ。このように省みてみると自分の股間がオカズにする二次元女性に対して随分細かい注文を付けてしまっていることに気付く。で、そういうわがままなオプションにまみれた目でメロンさんを見てみると全くチンコに来ないという訳だ。

 

但し、これは公式のメロンさんに限った話だ。イラストには画風というものがある。イラストレーター毎の傾向もある。だから、もし極めて自分のチンコにクる絵を描かれるイラストレーターさんがメロンさんを描いたとしたら、そのメロンさんに自分は「性的衝撃」を受けるだろう。そういう可能性は大いにある。また逆に言えばメロンさんに限らず自分はポケモンのゲームの公式イラストで射精に至ったことはない。あくまでポケモンの女キャラが自分好みの絵柄で描かれた二次創作イラストでヌいたことがあるだけだ。そして、これはポケモンに限らず多くの一般向け作品でも同じことが言える。(流石に勃起を自覚する程度の心の動きはあるのだが)

掲示板等に公式には巨乳とは言えないキャラの胸が増量された状態で描かれたイラストが貼られると「盛りすぎ」「盛るな」というレスポンスが付いているのをよく目にする。確かに「公式の造形からあまりにめ改変されて描かれたキャラは果たしてそのキャラと言えるのか」という問題も深く考えてしまうとある。ただ、今ここでは公式のキャラ造形を改変することの是非はここでは問わない。いや、どんな場面であってもそんなことは気にしない方がいい。オカズにする女性なのだから、眺めて自分のチンコが反応するかどうかだけを考えたらいい。「考える」までもないか。勃ったらヌけ。それがお前の好みだと自分自身にも言いたい。

 

何故かポケモンの新作について書いていたら自分の二次元女性に対するストライクゾーンの狭さを再認識する結果となった。リアルで「好きなタイプは?芸能人に例えると?」などと聞かれると答えに窮する自分だが二次元に限って言えば相手が引くくらい具体的に細やかな注文を付けて答えられるような気がする。そもそも、最近そういう質問自体もあまりされないが。むしろ、三次元女性に対しての方がストライクゾーンというか、許容範囲は広いのではないかと思う。まぁ、三次元はストライクだろうがボールだろうが手が出せないからだろうなと秒で答が出るからだが。

最後になったが、ポケットモンスターソード・シールドが面白いゲームというのは事実なので強烈にオススメする。メロンさんを始めポケモンの人間女キャラのエッチイラストが気になった方にはpixivでポケモン人間絵でタグ検索することをお奨めする。いや、本当は検索してから好みの絵柄の絵師さんを見付けられることをお奨めする。後、女キャラにしか興味がなくてもゲームはやってほしい。ポケモンに限らず、元ネタを知ってるとズリネタにした時の昂り方が違うから。これはマジで。自分もゲームをプレイした経験を活かして、今週末辺りにポケモン女キャラオナニーキャンペーンをしてみようかなぁ……とぼんやりと考えている。

*1:USUM=ウルトラサンムーン。ポケモンの前作

*2:すごくデカくなったポケモンを4人のトレーナーで協力して倒すゲーム。ポケモン剣盾の新要素。

*3:ポケットモンスターブラック・ホワイト2010年発売

好かれてなくとも嫌われてはいないと思っていたら、普通に嫌われていたでござるの巻

オナニーから少し離れて、友人との人間関係に悩む話になっています。最後は考え続けるのが嫌になったので、打ち切りENDです。自分のオナニーの話がコンテンツてして面白いとは微塵も思っていませんが、今回の文章はそれよりも遥かに面白くないです。

 

 

このブログのテーマは「オナニー」だと思ってはいるのだが、オナニーについて考えているとあれこれ別のことも思い付く。で、そんなオナニーとは別のことも書き留めておきたくはあって、結局は自分の頭の中のごちゃごちゃした様をそのまま書き殴っているブログになっている。だから、考えている内に考えが微妙にブレていったり、初めと終わりとで主張が変わっていたりする。そういう部分も整えずにそのまま文字にしている。推敲とかしていると途端にしんどくなって続けられなくなるからだ。勿論、この考え自体が既に「続けなくてはならない」というしんどさになっているというのはさて置いておく。

 

という訳で、多分オナニーには触れない話をする。人間関係の話だ。前にも若干書いたが、高校以来の友人との関係についての話だ。この友人たちというのは今やもう自分にとってほぼ唯一の「友人」と呼べるグループだ。他の領域にも多少とはいえ自分が“友達”と呼んでも許してくれる人はいる。いるにはいるが、関わりをもって以来、今日まで継続して交流があり、その頻度も日常というレベルで行われているのはこのグループの友人たちだけだ。

この自分を入れて十人にも満たないグループ内の人間関係について自分は悩んでいる。この感情を一言で表していいのかは分からないが、それでも一言で言い表すなら、自分はグループの中心から「疎外感」を感じている。一言で言い表してはみたが、この言葉も適切ではない。ただ、何となくグループとの距離をが広がっているように感じるという点で「疎外感」という言葉を選んだ。

友人との距離が離れること。これ自体はおかしいことではないと思う。特に古い友人というのは年を重ねると共にお互いの生活の場が変化していき、それに伴って離ればなれになっていく。そういうことは誰と誰の間にも普遍的に起こる自体だと思う。一応断っておくが、ここでいう離ればなれは、子供時代における引っ越しによるものとかではなく、ただ単に人生が進んでいく過程で自然と(例えば進学、例えば就職などによって)起こる別れだ。だから、“別れ”というよりは単なる距離の増加のような関係性の変化だ。いや、関係性は恐らく何も変わらない。ただ単に物理的な距離が広がっただけだ。

今、自分が直面しているのは“そういう”離れ方ではない。確かに“それ”も初めは物理的な距離の広がりだったのかもしれない。しかし、今はむしろ物理的な距離は案外“近くて”、精神的な距離が遠く離れているか、或いはその間に埋め難い断裂が走っている。歌詞っぽく表現するなら、「心と心が離れた」状態だ。友人との関係がそんな状態になってしまったのは何時からだろうか。厳密には「友人と合わなくなったことを自覚した」のは何時からだろうか。恐らく何度も予兆はあったのだと思う。その全てを見逃し続けた結果、関係は修復出来ないところにまで来てしまった。いや「修復出来ないところにまで来てしまった」という認識も案外自分だけがそう思っている状態なのかもしれない。友人たちにしてみれば自分は“自分*1の”振る舞い次第で「まだまだやり直せる位置」にいるのかもしれない。

彼らは恐らく自分との距離の広がりを余り深刻には受け止めてはいない。そして、自分だけが離れて「しまった」と実感していることが余計にまた辛い。これは、邪推に片足を突っ込んでいるかもしれない推測だが、恐らく彼らにとって、彼らと自分との心の距離が離れてしまっていても、或いはその間に深い溝があってもいいのではないか。本当にこんな推測(もはや想像か)をする自分の狭量さが嫌になる。しかし、彼らからしてみれば自分が離れていくことに何のデメリットもないだろう。むしろ離れられることがメリットなのではないか。というのが出来る限り客観に徹した自分の見方だ。

そうだ。客観的に見て、こんな情緒不安定で、協調性の欠片もない、何一つとして優れた能力のない人間と付き合うメリットは皆無だ。そうだ。自分から見てみても自分と懇意にするメリットは何もない。そこには自分自身が如何に利己的にあろうとしようが、利他的にあろうとしようが関係ない。そもそもの事実として自分は他人に利益を与えられるような人間ではないのだ。むしろ、彼らはよく今まで無条件に友人でいてくれたなと自分は感謝をしなくてはならない。

「感謝の心」、学生の頃はよく標榜されていたスローガン的な概念だ。そうか。それを「分かってるよ」と軽視してきたが、何も分かっていなかったと言う訳か。妙な納得感がある。自分は友人に対する「感謝の心」が足りていなかったのだ。「何で俺だけが特別意識して謙虚に振る舞わねばならないのか」と不公平感を沸々と煮えたぎらせていたが、今この瞬間にすっと理解ができた。自分は生きているだけで人に不快感やデメリットを与えている人間だったのだ。周りの人は心優しいから気を遣ってそれを我慢して、かつ自分に悟らせないでいてくれたのだ。だから、せめて自分に出来ること、しなくてはいけないこととして、謙虚に、控えめに、少々の理不尽には耐えて、振る舞わなければならないのだ。そのことがようやく分かった。言葉で殴られたように感じても、その何倍もの回数自分は人を不快にしてきたのだ。自覚のないままに。そうか……

自覚なく人を不快にしてきたことに今やっと気付けた。しかし、やはり思い当たらないので、個別にいつ誰をどのように不快にさせたのかは分からない。しかし、間違いなく不快にはさせている。それは自分との関わりが多い、長い人、親しい間柄の人ほどそうさせている。これは悲しい。自分に近い人ほど自分に迷惑している。「どうしよう」という情念がぞわぞわと自分の背中を撫でていく。

人に好かれようとはしなかった。好かれたいと思ったことはある。好かれる努力をせずに好かれたいと思う図々しさは今さら自己批判するようなことではない。そういう“ズルさ”は自分の送ってきた人生の至るところに石ころのように転がっているからだ。ただ「嫌われるようなこともしてこなかった」と自認していたのは間違いだった。勿論、自分がこれまでの人生の中で人間関係上のミスを全く起こさなかったかと言えばそんなことは決してない。しかし、自覚できた、あるいは年長者に指摘されたミスについてはその都度悩み、改善をしてきた……要するに“普通に”他者と関われるようになる成長をしてきた。そういうごく普通(だと自分は思っている)の成長を経て、自分は“少なくとも”嫌われない人間になれた。そう思っていた。だが、現実は違った。その事にこの歳になってようやく気が付いた。

現実というのは理想とはかけ離れていた。理想は「好かれる人間」、しかしそれは“理想”だという認識があったから、“現実”的な落とし所として「嫌われない人間」という設定をした。“つもり”だった。本当の現実は「嫌われる人間」だった。かつて落とし所に設定していた「嫌われない人間」はとんでもない高望みだったという訳だ。ただ、それに今この段階になって気付いた。

目が覚めて、深い絶望を目の当たりにした。本当のことを言えば落とし所を設定したというのは嘘だ。そんなことを機械のように設定したことはない。つまり、落とし所を定めて「そうなろう」とした訳ではなく、「自分はそうだろう」と認識したに過ぎない。認識、これもその瞬間があった訳ではなく、ごく自然の内にそう認識していた。好かれる努力をしなくても、普通にしていれば嫌われない人間にはなれているだろうと思っていた。自分は自分を見誤っていた。自分は“普通に”しているだけで他者を不快にする(=他者に嫌われる)人間だった。だから、恐らく自分が「好かれる努力」だと思っていたのは「嫌われない努力」だったのだ。スタート地点が一般的な他者とは違っていたのだ。自分はマイナスに立っていた。

“普通”これもまた自分が誤認していたものの一つだ。自分がこれまで“普通”だと思っていた認識、感覚は一般的他者にとってはそうではない。その差がどれくらいあるのか、あるいはどのような位置関係で離れているのかは分からない。自分の認識のズレという観点を語り続けるにはもっと専門的な知識が必要だと思うのだ。だから、自分の普通が世間一般の普通からどれだけ乖離しているのかは今は考えないでおこうと思う。「乖離している」という事実だけを認識していれば一先ずはいいだろうと思うことにする。

 

自分の“普通”への悩みからは離れて友人関係の話に戻りたい。いや、戻るも何もうだうだと考え書いてきたお陰で答えは出た。自分が「疎外感」を感じていてもそれは仕方がないという訳だ。要するに「疎外されるような振る舞い」を続けてきた結果として今の状態があるのだ。自業自得、因果応報、何とでもいい表すことができる。色々考えた結果分かったと書いたが、薄々とは感じていた。いや、はっきりと分かっていても認めたくなかっただけなのだと思う。ただ、分かっていたのは「疎外感」を感じる理由が自分の方にあるということだけだ。不快にさせたこと、自分が普通だと思っていた振る舞いが普通ではなかったことはうだうだと考えて文章にしたから見つかった発見だ。だから、この作文には一定の意味があったのだと思う。意味があったと思わないとやってられない。

自分が悪いことを認めて、謙虚に振る舞うこと。ただ、自分が「どう悪いのか」は結局分からず仕舞いだ。そして、自分は「謙虚とは自己主張をしないこと」だと思っている。多分、思い込んでいる。だから、謙虚に振る舞おうとすれば無口になるしかなくなる。自分の思うように振る舞う(これは高確率で周りの人間を不快にさせる)か、一切喋らないでいるか。両極端でしか物事を見れないタイプなので、どちらか一方になる。ちょうどいい塩梅とかは自分にはない。現に特に親しくない人の前(例えば仕事中とか)では殆ど無口でいる。そして、それが特に苦痛にはなっていない。むしろ、どちらかというと喋りたくないとすら思う。ただ、友人の前で無口でいるのは辛い。「他人に迷惑かけなければそれでいいじゃない*2」とかいうが、全くそれでよくない。いや、多分客観的に見たらそれでいいのかもしれない。だが、自分自身は辛くて何も良くないのだ。喋って離れられるか、黙って近くに居させてもらうか。両極端にしかいられない自分だが、どちらか一方しかというのも無理だ。

人間関係とは「自分を抑えられる」かということなのかと思う。「自分」を抑えて、それっぽい普通(ずっと黙っていることが普通かは分からないが)を身に纏うことが人間関係を円滑にする手段なのかと思う。しかし、それを実行できたしとて(無理だからこういう現状があるのだが)、ずっと黙っている人格に意味はあるのだろうか。いや、一切言葉を発さなくても手はしっかりと動かしているのならその人には労働力てしての意味がある。「仕事」という世界ではそれでもいいのかもしれない。しかし「友人関係」という世界においてはその一切喋らない人格は果たして「自分である必要があるのだろうか」

 

いつの間にか「喋る・黙る」に限定された話になってしまった。これを「自分の思うように振る舞う・他者が望む振る舞いをする」という広い範囲に拡げてみる。よくよく考え直してみると、黙ることが他者が望む振る舞いかは分からないところである。結局はその場その場の空気というかルールに依るのだろう。つまり、黙っている必要がある場面で喋ったから(それも自分一人が盛り上がった状態で)、友人を不快にさせたのだろう。ここにもう一つだけ後出しの情報を付け加えることを許してほしい。自分と件の友人たちとの普段の関わりはSkypeによる通話だ。なおさら、振る舞いの大半が喋ることになるという訳だ。そういう世界(土俵)で如何にして自分の思う振る舞いをしつつ、他者に不快感を与えないように立ち回るか。人間関係というゲームはそれが真髄なのだと思う。

ゲーム……?人間関係とはゲームなのだろうか。ゲームというならばそこには勝ち負けが存在することになる。確かに上述のような駆け引きもある。では、ゲームに負け続けた人間はどうなってしまうのか。

本来なら人間関係はそんな殺伐としたものである必要はないはずだ。駆け引きが苦手な人にも手が差し伸べられるのが人間と人間が関係を持つことの醍醐味なのではないか。確かに、ここで「手を差し伸べられるような立ち回りができるかどうかだろ。」という意見が出てくる可能性もある。それは分かる。分かるのだが…………

 

もう、書き始めてから時間が経ち過ぎた。ここで打ち切る。この文章を踏まえてまた似たようなことを考えるかもしれない。その時の為にこの文章は残しておく。

*1:筆者を指す

*2:Иatural Pop』 ORANGE RANGE

やりたくないことからは逃げ出したいという欲望

オナニーというよりは、自分の考えたことを中心に書きました。やはり、纏まりがなく、本文の初めと終わりとで言っていることが矛盾していたりするかもしれません。しかし、ぐちゃぐちゃになった頭の中をそのまま文章にしたという意味では正しい姿なのかなと思います。

 

「質の高いオナニー」については少し置いておこうと思う。いや、恐らく自分は「質の高いオナニーの話」から逃げ出したくて、別なテーマの文章を書き始めたのだと思う。これはブログ(というよりは文章を書くこと全般)についても言えることだが、自分は何かから逃避したい時により書けるようだ。だから、仕事から、労働から、現実から逃げ出したい平日にだけ筆が進むのだ。休日には逃げたくなることがない、訳ではない。だがしかし、休日には他の逃げ道がいくらでもある。それこそオナニーとか。むしろ「休日だから平日よりも沢山考えて、沢山文章を書かなくては」という思いから逃げたくなっている。逃げる。結果、休日には何も考えられず、文章も書けない。

という訳で、自分は目標だとか、高い意識をもってだとかでブログを書き綴ることはできない。「あくまで適当というか、何かから逃避した結果としてのブログでしかない」というスタンスを維持するしかない。これはオナニーにしたってそうなのかもしれない。「質の高いオナニーを」と思ってしまった瞬間、それは自分の中で義務のような存在となる。義務のようになってしまうと、これは何とも苦しい。オナニーはもっと解放されていて……ここで「解放されているべき」と書いていいのかもよくよく考えると迷われる。「オナニーはこうあるべき」と考える出すと、その瞬間にオナニーに謎の作法とか肩肘を張らなくてはならないような要素が混じってしまうように感じる。とはいえ、これはいくら考えても、むしろ考えれば考えるほど、どんどんと「オナニーはこうあるべき」「理想のオナニーとは」という苦しい問答に突入してしまう。そして、最終的には「どうすれば、良いオナニーができるか考えよう」「しかし、オナニーとはそもそも考えてすることではないのでは?」というような出口の無いループの地獄に嵌まっていってしまう。だから、もうやめた方がいいのだ。「良いオナニー」というテーマからは少し離れた方がいい。

 

いざ、テーマを手放すと途端に何を書けばいいのか分からなくなる。以前にも書いた「特筆すべきことがないのに、ブログを書き始めてしまった」という状態だ。何故そんなことをするのか。逃避だ。現実からの逃避だ。しかし、では何故現実からの逃亡先に文章を書くことを選んだのか。理由は単純だ。最も現実が側にいる職場において、逃げられる場所というのが文章しかないからだ。他に逃げられる先があるならそこに逃げている。現にTwitterとかをただぼんやりと眺めているという極めて無駄な人生の使い方をしていることもある。真に逃げ場がないとき。つまり、文章を書くことすら許されない業務中は何かを考えている。仕事とは全く関係ない何かを考えている。その考えた何かの成れの果てがこのブログの文章だったりする。とかく、自分の本質は逃避だ。嫌なこと、逃げたいことはその都度変わるが、何にせよそれから逃げたいが為に別の行動に勤しむのだ。だから、もしかしたら考えることが嫌になったら、黙々と手を動かして業務に逃避しているかもしれない。(もっとも、“どうでもいいことを考えること”はかなりの中毒性を秘めた行為なので、そうそう嫌になることもないだが)

自分の本質は逃避と書いた。つまり「やりたいことをする」ではなく「やりたくないことをしない」というのが自分の無意識での行動パターンなのかもしれない。これは変えようがないように思う。しかし、良いかと言われれば多分良くはない。少なくとも「何かになる」「何かを成し遂げる」という人生からは永遠にお声が掛からないだろう。「やりたいことをやろう」と思ってやり始めても、遅かれ早かれそれが「嫌になる」時が来る。別の何かに逃げたくなる時が来る。それを幼少期から繰り返し続けて、この歳になってやっと認知して、理解した。妙な納得感がある。同時に少し呪いのようなものが解けたようにも感じる。そういう清々しさがある。例えるならば、晴れた空の下で胸を張りたくなるようなそんな感情である。

 

恐らく、客観的な視点で自分を見たら、自分は何も変わってはいない。「自分の中身を文章にすることで清々しい気持ちになれた」という感覚を欲しただけなのだと思う。或いは文章を書くことで清々しい気持ちになることで、書いた文章を「清々しくなれる文章」という権威付けをしたかったという感情が働いたのかもしれない。はたまたもしくは文章を書くことに「心を晴れやかにする」という意味を付加しようとしているのかもしれない。独りよがりな思考だと思う。自分で自分に酔っているとも、自分で自分に催眠を掛けているとも、そのような状態だと思う。しかし、気持ちがよいのだ。恐らく、許される。どれだけでも、いつまででも自分で自分に酔うことがここでは許されているのだ。心地がいい。そうか。オナニーだ。今、自分はオナニーをしている。遂に職場という公の空間で、隣に同僚がいる状態で、自分は陰茎を取り出して扱いているに等しい快感を得ている。俺は今、職場で堂々とオナニーをしているぞ!!!

 

気持ちが昂りすぎたと思う。またもう少しだけ自分の人生の話をしたい。「やり始めることが常に別の何かやりたくないことからの逃避であり、それはどこかで必ず次のやりたくないことになる。」と書いた。それは良くないとも書いた。ならば、「やりたいことを始めればいい」というのが健全化の流れとしては正しいと思う。しかし、やりたいことであってもいつかはやりたくなくなることは目に見えている。目に見えている罠に自ら飛び込むのは少々気分が進まない。と言うか、そもそもこうして改めて考えてみると「やりたい」と思うこと自体がそもそも無いという事実に気付く。自分は何がしたいのだろうか。自分にしか答えが分からない問いを延々と自分の脳に投げ掛け続けている。客観的にも主観的にも無駄な脳の動きだと思う。しかし、止めようにも止められない。それほどに自分は何をしたいのか、何をしたらいいのか分からなくてしんどい。

先週の時点での思考は自分を行動させるのは「欲」だと判定していた。性欲に従ってはオナニーをし、何か文章を書きたくなっては文字を画面に打ち込む。事前の計画などは意味をなさない。その時、その時の欲望によってのみ自分の行動は決定され、実行されいく。と、先週の自分はそう思っていた。しかし、週末を経て、今日改めてぼんやりと考えていたところ、どうやらそうではないらしいことが分かった次第だ。自分を行動させるのは「欲望」ではなく「逃避」だった。「逃避」もある意味「今取り組んでいることから逃げ出したい欲望」と言えるかもしれないが。とにかく、やりたいことがやりたくないことになった瞬間に次の行動が決まる*1。そして、その次の行動たるやりたいことというのは案外何でもよかったのかもしれないと思う。今やってるやりたくないことから逃れられるなら、次にやることは何でもいい。改めて思い返して、自覚するのは初めてのことだが、心の奥ではそう考えていたのではないかと思い当たる場面は今までの人生で何度もある。やりたくないことから逃げる為のやりたいこと、それは偽りの欲求なのかもしれない。偽りだから、それはいずれ次のやりたくないことになるのかもしれない。逃避を繰り返して、積み重なったものがそのまま自分の人生だとすると、それは悲しい……ことなのだろうか。案外何も感じない。

逃避の果てに始めることが偽りのやりたいことだとして、では、自分の本当にやりたいことというのは何なのだろうか。そんなものはないのかもしれない。あるいは「何もしたくない」というのが、本来の欲求なのではないか。こんなことは「良いオナニー」について考えるよりも無意味で、不毛だ。もう、開き直るしかない。嫌なことからは逃げて、逃げて、逃げた先も嫌になったらまた逃げて、逃げ続けるのが自分の人生だと自覚して生きていくしかない。逃げ続ける人生だから、行き着く先がまともな場所とはならないだろう、恐らく何者にもなれていない自分がそこにいるだけだ。そして、そんな人生が、自分が悪くないとすら思っている自分もいる。そうなのだ。所詮、自分の人生なんてその程度なのだ。これからもその場その場の欲求に従って、行き当たりばったりに生きていく。その欲求が逃避からくる偽りの欲求かはたまた本当の欲求かは分からない。しかし、従うしかない。自分にはそれがお似合いだ。

 

その時々の欲求に従って生きようと、改めて決意をした。そろそろ、話をオナニーにより戻したくなってきたのでより戻す。オナニーというのは性欲に従った結果の行動だ。だから、オナニーしたい時にオナニーできればそれでよかったということに今気付く。自分は「質の高いオナニー」と題して、オナニーの内容にばかり気を取られていた。勿論、自分が気持ち良いと感じる「質の高いオナニー」を追い求めることも悪いことではない。それはそれで意味があることだと思う。しかし、それをやりたくない時にまでしようとするのは間違いだった。気持ちよくなる為のオナニーで思い悩んで気分を落ち込ませているというのは本末転倒だった。重要だったのは、オナニーしたい時にするという自分の欲求に素直に従うことだったのだ。そのオナニーの内容の良し悪しを考えることなんてあまり意味がなかった。考えるにしても、オナニーが終わってから良かったか、悪かった振り返る程度にしておけばよかったのだ。また気持ちが清々しくなった。今日は良い日だ。気付きが多い。

「意識的に質の高いオナニーをしてみる」という先々週に思い立った試みは今思えば馬鹿げていた。何故なら結局のところ、その場その場の欲求にPDCAなんて何の効力もなかったのだから。オナニーに計画は通用しない。あるのは常にやったオナニーを振り返る感想戦だけだ。そして、オナニーしたい時にできれば、それは一先ず良いオナニーと言っていい。だが、今になって思えば馬鹿げていたとしても、自分はこの試みに全く意味がなかったとは思わない。試みたからこそ、今の考えが頭に巡ってきたのだと思っている。それに出勤前オナニーの問題点についてはまだ考える余地がある。しかし、今はしたくないことなのでしない。今はもう少しこのまま清々しい気持ちでいたいので、オナニーの良し悪しについては考えない。

 

文章を書いて気持ちよくなることについて。話を文章を書くこと、ブログについてに戻してみたい。文章を書いてそれをブログとして曝し出した効果なのか、最近夜道でブロック塀をリスナーにブツブツやることが減った。リアルでブロック塀に話し掛けるよりは、インターネットに好き勝手吐き出す方が身の安全を確保するという点においては遥かに良い。しかし、自分にとってどうか、という点においては良い傾向かどうか判別が付かない。もしかしたら「夜道を歩きながらボソボソと独り言を呟いているようなヤツ」という状態の方が客観的には良いのかもしれない。「そんな訳ないだろ」と貴方は言い切れるだろうか。貴方は自分のことを恐らくご存じないハズだ。いわば、画面の向こう側にいる(と思われる)全くもって無関係の人間だ。貴方と自分との接点は、この自分が一方的に吐き出しているこの文章を貴方が閲覧している以外にない。だから、自分が夜道で独り言を呟くようなヤバい、危ない人間であっても、貴方にとっては一切何の害もないのだ。そう考えると、どうだろうか。画面の向こうでこの文章を書いているヤツというのは、ヤバい、危ない人間という方が貴方は愉快に感じるのではないだろうか。恐らく、インターネット上でしかすれ違わない全く赤の他人というのは普通の、ノーマルな人間よりは、奇特な、アブノーマルな人間の方が興味を惹かれるのではないだろうか。少なくとも自分はそうだ。そう考えると、自分は自分の状態を危ない方向へと傾けておいた方が少なくともブログを書いている上ではいいのではないか、ということになる。

はい。ここに欲がある。「ブログを良くしたい」という欲がある。そもそも、このブログというか文章は「言いたいけど知り合いには言えないだけど知らない誰かには聞いてほしい」というクソと言ってもよい自己顕示欲に端を発している。しかし、クソをクソと自認していることがある意味最後の防波堤だと思っている。これを「クソじゃないですよ!とても面白いエンターテイメンツですよ!!!」と言ってしまったらおしまいなのだ。百歩譲ってブログを良くしたいのなら(そういう努力をする覚悟は自分には微塵もないが)自分が奇特なことをするのではなく、普通のことを平凡な言葉で書いて奇特に見せる努力をするべきだ。具体的には推敲とか、読書とかをした方がいい。少なくとも、むりくり自分の行動をヤバい方向に持っていこうとするのはみっともないにも程があるから止めておいた方がいい。ブログを抜きにしても、自分を奇特なエンターテイメント或いはコンテンツにしようというのは間違っていると思う。特にそういう考えなく行動を続けた結果それがエンターテイメントになっているからこそ、そういうコンテンツには価値があるのだ。狙ってやるのは明らかにダサいというか、みっともないのだ。

 

 

僭越ながら、これは過去の自分のツイートだ。案外前から自分が“分かっていた”ことに少し驚いている。最近はこういうツイートをしなくなった。やっぱり、繋がっている友人(最近は愚かなことに実妹まで相互フォローになってしまった。)には見せられないと思う。既に見せてしまっているから、今更だとは思う。思うが、罪を重ねることもない。こういうツイートをすればするほど、自分と友人との中は険悪になっていくのだと思う。

他者にはとても見せられないような自分の考えていることを文章にしたのがこのブログだ。そんな見せられないようなブログだが、見られたいとも思っているというのは既に述べた。そして、その時*2の文章にはあわよくば言及されたいとも書いた。そして、本当にありがたいことに言及を頂いた。心から感謝を述べたい。ありがとうございます。

 

コメントを頂いたことで、嬉しくなってしまった。嬉しくなってしまったから、このブログはもはや人の目を意識するものとなった。いや、多少は読み返したりはしながら書いてはいるが、そういうことではなく、読まれているという意識を持たずにはいられなくなったという意味だ。読まれることが悪いことではない。インターネットに放流されている以上、読むのは全インターネットユーザーの勝手だ。本当に読まれたくないのなら非公開にするか、そもそも自分のデバイスの中だけに留め置いておけばいい。それを曝しているということは、つまり、読まれたいと心の中では思っているのだ。

「味をしめる」とでも言うべきか。一度いい思いをするともっと欲しくなる。冒頭の方で「適当というか、何かから逃避した結果としてのブログというスタンスを維持するしかない」と書いた。しかし、それがこの様だ。少し構われただけで、より構ってもらおうと考え始めている。つまり、目標を持つだとかよりよいブログ、文章にしようだとか考え始めている。「ブログを良くしたいのなら〜」とも書いたが、このブログにとってはそれすら間違っていると思う。このブログは逃避から始めたものだから、そういうことはしない方がいいと思っている。意識してブログを良くしようとあれこれ始めてしまうと、ほぼ確実にこのブログもいずれ「やりたくないこと」になってしまうからだ。その時が来たら終わりだ。そうはしたくない。自分はこのブログを手放したくはない。だから、捨てる。ブログを良くしてより多く構ってもらいたいと思う欲を捨てる。捨てられるか。

*1:常にそうではないと思う。という予防線は張っておく

*2: