イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

出勤前オナニーは多分よくない。

 週末中には書き上げようと思いつつも、やっぱり書き上げられなかった「意識して質の高いオナニーをするようにする」実践の結果報告的なヤツです。書いている内に文も頭もぐちゃぐちゃになってきたので、最後の方は無理やりぶった切って終わっています。あまり日を掛けすぎてもよくないとも思うので、これはこれでいいと思うことにします。

 

 先週思い立って始めた「意識して質の高いオナニーをするようにする」試みの結果を書き残していきたい。とはいえ、約一週間というのは期間としてはいささか短すぎたかと思う。もう少し長い期間を設けて経過を見るべきだったと思う。前回の日記には「最終報告」とか書いたような気がするが、アレは嘘だった。

 さて、では肝心の結果だが「出来なかった」というのが正直なところだ。現れてしまった結果というのは、これはもう仕方がないので大人しく受け入れるより他ない。それよりも「何故そうなったのか(ならなかったのか)」とか「どうすればよかったのか」とかを考えることが恐らく重要なはずである。(こう書くと、まんまPDCAの輪廻に囚われているようでやや癪に感じるが、苛立ってばかりいる訳にはいかないので心のモヤを圧し殺す。)

何故そうなったのか

 第一に、これは自分の中で微少ながらも性欲の減退があったからだと思う。もっとも、減退と言ってもオナニー自体は毎日していた。オナニーの機会が少なくなった状態でも質の高いオナニーを目指すことは出来たハズなので、やはりこれは「出来なかった」ということになるだろう。

 僅かな性欲の減退以外の出来なかった理由には一体何があったか。それはオナニーしようと思ったタイミングが悪かったという点が挙げられる。(恐らく多くの人がそうであるように)自分は性欲が高まったタイミングでオナニーを開始する。つまりは、肉体と精神が欲するままにオナニーしたい時にオナニーするのだ。とはいえ、流石の自分にも最低限度の社会性というものが備わっているから、仕事中にいきなりチャックを下ろしてチンポを取り出して扱き始めるということはしない。あくまで「オナニーできる状況において」したい時にしている。そのような訳で開始のタイミングについては結構自由が利く。少なくとも平日の朝家を出て夜に帰宅するまでの間でオナニーを我慢出来なくなったことは今のところはない。しかし、オナニーはただ始めればよいというものではない。オナニーにも最中があり、射精という終わりがある。終わった後は服も着なくてはならない*1。欲を言えばオカズの選定はじっくりとやりたいし、イった後は暫く虚脱感に浸っていたい。

 これは完全に余談だが、イった後にオカズにしたページからエロスとは全く関係のないページに飛ぶこともよくある。つい先日は何故かイった後にティッシュも手に取らずに日大紛争 - Wikipediaを読んだりしていた。全く以て意味が分からない。多分、その時の自分に問い詰めてみても「何でそんなことしたのか分からない」と答えると思う。だが、そんな心地の良い虚脱感の中でエロスとは全く異なるページを閲覧するのもどこか好きな自分がいる。

 と、このようにオナニーには結構時間が掛かるというのが個人的な見解だ。しかし、「オナニーできる状況」というのは何時までも続くわけではない。先の日記でも書いたが「質の高いオナニー」には時間の余裕が必要だが、中々時間が取れないという問題が出てくる。これが「他にやりたいことがあってオナニー出来ない」という状態なら致し方がないと思う。納得も出来る。つまり、そのやりたいことがその時の欲望なのであって、それが性欲に一時的に勝ったというだけだからだ。だからこのケースはオナニー自体が“始まらなかった”のであり、質の高いオナニーが出来た出来なかった以前の話なのだ。問題はオナニーをしたくて始めたのに時間がなくなってしまった場合だ。性欲はやる気満々なのにタイムアウト、これは辛い。高まるだけ高まった性欲をどうにか抑えてオナニーを中断するか、とりあえず射精を目標に極めてインスタントな手捌きで茶を濁すか、どちらかになる。どちらになっても、質の高いオナニーとは到底言えない。どちらの選択肢を採っても後悔しか残らないだろう。

 もう、回りくどくなるのもよくないので有り体に申し上げよう。出勤前のオナニーが極めて低質でどうにかしたい。これが自分のオナニーの目下の悩みというか問題点だ。この問題さえどうにか解消できたなら、自分のオナニーの質は自然と向上すると思う。

出勤前オナニーという愚

 そもそも「出勤前オナニー」とは何か。これは朝仕事に行くために家を出る、その直前の時間にベッドに潜ってもぞもぞシコシコすることである。まるでそういう概念があるかのように書いたが、単に自分の性欲の高まりが朝目を覚ました後、出勤前に訪れる、そういうサイクルに生きているという話である。他人のオナニー事情は聞けないし、またわざわざ自分みたいに自供しているブログをインターネットで探すほど知りたい訳でもないから知り得ない。もしかしたら「出勤前オナニー」という概念は自分の中だけにある、自分独自のものかもしれない。はい。今、この瞬間そうであって欲しいと仄かに思ってしまった。浅はか。自分今最高に浅はか。

 別に出勤前オナニーの独自性とかはどうでもいい。問題なのはこの出勤前オナニーが自分の中で完全にクセになってるということだ。別に誰に聞かれた訳でもないのに自分の中のキルア・ゾルディックが「ああ……クセになってんだ出勤前にオナニーするの」って主張してる。申し訳ない。恥ずかしいから誰であっても見逃してほしい。「キモチよくなる為にオナニーしてるんだろ?それが出勤前でも別にいいじゃん。」と、貴方は思われるかもしれない。しかし、違う。出勤前オナニーの大部分を占めるのは、迫り来る家を出なくてはならない時間への焦りと、イけそうなのだがそれは今すぐではないという感覚だ。これは「質の高いオナニー」という至福でなくてはならない時とは程遠い、焦燥感ともどかしさに苛まれた臨戦状態に等しい。そんな限界バトルを毎朝独りで繰り広げている。これは、やはり世間一般と比べてみると可笑しいことなのだろうか。繰り返しになるが、自分以外のオナニーは分からない。分からないので、自分が囚われているこの毎日のサイクルが狂っているのか、正常なのか全く以て判別が付かない。ただ、この出勤前オナニーというサイクルが自分の考える「質の高いオナニー」にとっては“悪”というのは分かる。間違いない。先に定義した「質の高いオナニー」に向かおうという意思を持てば持つほど、この出勤前オナニーの輪廻は絶ち切らねばならないものだと思う。

「どうすれば断ち切れるのか」という話はさておいて、もう少し自分の出勤前オナニーの内容について書いていく。書いていくことで、如何にそれがよろしくないかを顕にしたい。まず、目覚める。目覚めると愚息は勃起していることが多い。所謂「朝勃ち」という現象だ。そして、勃起していないにしても何故か異様にムラムラする。理由は分からないが、これは朝勃ち以上に確実にそうなる。

 これは根拠のない憶測に過ぎないのだが、オナニーを習得して以来そのほぼ全ての回数をベッドに横たわった状態で行ってきた結果、寝床に寝転がっただけで性欲が沸き立つ体になってしまったではないかと思う。つまり、自分でも知らない内に床に臥せることと性欲とが繋がってしまっているということだ。

 そんなこんなで、目覚めてから寝床を抜け出すまでにほぼ確実に陰茎を弄るフェーズが発生する。これが休日だと、二度寝と相まって中々布団から出られなくなるのだが、平日の自分は案外社会性があるようで、現状結構すんなりと布団から抜け出すことができている。そして、朝食を食べるなどする。その後、家を出るまでの僅かな時間に寝床に戻って、する。というのが、自分の朝の全てだ。こんなことをしていて今のところ遅刻をしたことがないのだから不思議なものである。ただ、その引き換えとなっているのがオナニーの質という訳だ。悲しいことだと思う。

 出勤前オナニーはごく僅かな時間にプレッシャー、焦燥感、性欲と闘うべき相手が多い。「性欲には負けているから、そんな状況にも関わらずオナニーしているのだろう?」と言われるかもしれない。しかし、いくら性欲に負けてオナニーを始めたとしても、本当に出社に間に合うように射精出来るかは分からない。日によっては残された時間と射精に至るまでに掛かりそうな時間とを冷静に比べて泣く泣くその場でオナニーを中止しなくてはならない時もあるからだ。まぁ、実際の自分の脳の働きはそこまで冷静でも的確でもないのだが。何にせよ残り時間を気にしながらのオナニーなど、どう考えても質が高いとは言えない。オカズへの集中や妄想への没入が全く出来ていないからだ。むしろ、脳でオナニーの中止を判断できた時などは幸運であったというべきである。中止を以てして質の低いオナニーを回避出来たからだ。大抵の場合は何とか自身を射精まで至らせる。このようにして思い返してみると、やはり結局のところ自分は性欲には勝てない人間なのだと自覚させられる。

 そんなムリなオナニーを知らず知らずの内に繰り返してきた結果がまさかの「膣内射精障害」だ。期待と緊張を胸中でない交ぜにして向かった人生初の風俗*2で判明した悲しい事実だ。無理もない。短時間でイくにはやはり、物理的に強い刺激が必要なのだ。オナニーを覚えてから十数年経ったタイミングで「正しいオナニーのやり方」などと言われても、もはや遅い。今さら何の意味があるのかと問い詰めたくなる。加えて自分なりにそこそこ幸福だった今までのオナニーライフを全否定されたような気さえしてくる。今までのオナニーライフの否定、それは即ち今までの自分への否定ではないかと思う。だから、多分、恐らく自分はオナニーのやり方を変えはしないだろう。まぁ、本音のところを申すなら、今さらやり方を変えるのも面倒だから変えないと思う。

 膣内射精障害を負っているだとか、オナニーのやり方が良くないだとかは、どうでもいいと言えばどうでもいい。恐らく、この人生はこの先もプロフェッショナルの方に依頼をしない限り、膣内で射精する機会は巡ってこないからだ。だから、そんなことよりはオナニーで気持ちよくなることに意識を割いた方がいい。オナニーのやり方はともかくとして、出勤前オナニーというサイクルは改めねばならない。オナニーで気持ちよくなることに反しているからだ。

 

 いや、気持ちよくなっているから射精をしているのではないか。オナニーで気持ちよくなりたかったはずなのに、自分はいつの間にか「気持ちよくなれるオナニーそのものに価値を見出だしてしまっていたのではないか」しかし、それでも出勤前オナニーには満たされない部分があまりにも多すぎる。改めたい。

 

終わる

 少し頭が混乱してきたので、報告はここでぶつ切らせてもらおうと思う。結果としては、「意識をしても質の高いオナニーは出来なかった。『出勤前オナニー』というサイクルが良くなかった。」ということにしておこうと思う。ちなみに今朝*3も射精してから家を出ている。

*1:自分はオナニーを全裸ですることが多い

*2:その話はまた機会があればする。

*3:2019/11/11

結局はどれだけオナニーに人生を使えるか(でも、他のこともしたい)

 前回の日記で書いた「意識して質の高いオナニーをするようにする」試みについての中間報告的な感じを目指して書き始めたのですが、時間が掛かり過ぎました。最終報告は本文中と注釈にある日より後になると思います。まぁ、別にどうでもいいことですが。テーマは「質の高いオナニーには心身の安定が必要だと思ったんで、その辺をまとめてみた」……と標榜出来ればよかったんですけど、全然まとめられてないです。結論としては「質の高いオナニーをしても、なお余りある余暇が欲しい……」ですかね……?何だかんだ言っても、オナニー以外にしたいこともある訳ですらね。

 

 下らないことであっても、やはり通勤中や仕事中の方が思考はよく巡る。いや「労働」というストレスがないと、下らないことについてすら思考することが出来ない。休日というのは実に頭が動かないもので、目先の分かりやすい快感にのみ食い付き、これを貪ってしまう。むしろ、分かりやすい快感を貪れている時はまだマシで、どの快感を喰らおうか迷っている間に平日が訪れた時の絶望は思い出したくもない。平日に比べれば休日の価値は数百倍も高い、それは分かっているハズなのに、その高価な休日をまたも無駄にしてしまった。そして、そのことをまた平日に悔やむという輪廻。少しでも改善したいと思う。そんなわけで、やはり平日の空き時間に文をこねくり回す。

 

 やはり、自己のオナニーの話をするより他あるまい。件の「意識して質の高いオナニーをするようにする」実験についてだが、まだ道半ばといったところだ。最終的な結果は今週末*1にご報告できたらいいなぁと思っている。が、これすらもやはり未定な予定であることはご容赦願いたい。

 

 誰に容赦を請うているのか。このブログは個人的事象の掃き溜め。死んだ精液を包んだティッシュのようなもの。その程度の価値しかないが、代わりに誰にも遠慮はしなくてもよいハズだ。そう思って綴っている。

 

 道半ばではあるが「質の高いオナニー」について少しだけ分かり始めたことがあるので、自分のために記しておきたい。「分かり始めた」と書いたが、実は前回の日記を書き終わる頃には既に思い至っていた。あるいはもっと前から薄々と感じてはいたのかもしれない。それほどまでに普遍的で当たり前のことだが、一応言っておく。「質の高いオナニー」が出来るかどうか、それは「如何に肉体的、精神的に安定した状態でオナニーが出来るか」である。当たり前のことをまるで大発見をしたかのように書いている恥ずかしさを感じる。恥ずかしさを感じているので、厚顔無恥っぷりについては赦されたものとする。

 という訳で「肉体的、精神的に安定した状態でするオナニー」についての話をする。とはいえ、これはそのままの意味で、(くどくなるが繰り返す)オナニーする者であれば皆心得ている基本中の基本と言えることである。自分自身も、これについては恐らく肉体とか本能レベルでは理解をしていた。ただ、こうして自分の日々のオナニーを文章にして振り替えるという試みを始めたことによって初めて、頭での理解、感覚ではなく言葉での理解ができたように思う。せっかく、質の高いオナニーを言語化できる機会が巡ってきたのだから、もう少し具体的に書いて完全に自分の中に留めておきたいと思う。

 

 まず初めに「肉体的、精神的に安定した」状態を明らかにしておく必要がある。これは各人において違うので一概には言えないが、要するに「何の不安もなくオナニーに集中できる」状態のことであると思う。肉体面で言えば、例えば利き手を骨折している状態では満足に陰茎を扱けないだろう。或いはオナニーする元気もないほど身体が疲労しているなども肉体面の不安と言えるだろう。ともすれば、肉体面の安定を求めるならば、「良いオナニーは良い体調から」となるだろう。まずは体調を整えるというか、健康でなければならないという訳だ。労災防止の話みたいで労働を想起してしまい何ともイヤになるが、事実なので仕方がない。

 他方、精神面はどうか。精神面の安定とはこれつまるところ、オナニーを行うに際してストレスがない状態である。オナニーをしようと思っても、ふと次の日に待ち構える試験、発表、期限などが脳裏を過れば質の高いオナニーなど到底出来ないだろう。「次の日に大事があればオナニーなどしないだろう」という指摘もあるかもしれない。甘いと思う。大抵の大事というのは社会によって課される。しかし、オナニー、つまり性欲は社会の以前、生物としての根本的欲求に依って呼び起こされる。社会的欲求などお呼びではないのだ。オナニーに生きる者、ムラっとすればヌく。翌日の大事など、俗世のノイズに過ぎず、質の高いオナニーにとっては邪魔でしかない。というのは言い過ぎであろうか。しかし、個人的にはそれほどに社会というものに意味を感じない。自分の性欲の発散と社会とを天秤に掛けると、社会など割とどうでもよいもののように感じる。

 

(とはいえ、オナニーの供たるオカズを産み出してくれているのは社会であって、ここに消費者にしかなれない者の身勝手さが垣間見えて自分で自分に嫌気がさしもする。)

 

 話が逸れた。肉体面、精神面の安定についてまとめると、「体調を健全に保ちつつ、ストレスも受けていない状態」がこれと同義だと言える。

 さて、質の高いオナニーにとって必要な安定については明らかにできた。そして、個人的には肉体面よりも精神面の安定の方がオナニーにおいてはより重要だと感じる。その理由だが、まず肉体の不調が過ぎる時というのはそもそも物理的にオナニーが出来ない状況だ。逆に精神のみが不調な場合というのはどうか。これはオナニー出来るだろうと考える。少なくとも自分はオナニーする。余程痛烈な精神的ショックを受けてでもいない限り、人はいつものようにムラムラする。つまるところ、オナニーができない程の肉体面の不調はどうしようもないのである。だから、肉体がオナニーOKな場合に精神が応えられるよう、精神面の安定を重視する必要があると考えるのだ。

 加えて、肉体と精神を比べれば精神にダメージを負う機会の方が日常の中では遥かに多いと思う。精神面の安定についての段でも書いたが、現代社会というものは驚くほど無神経に個人に対してストレスを与えてくる。暑い、寒いなどの身体的ストレスだけでも大概なのに、それに追加して、やれ税金だ、効率だと死人に石を載せるがごとくストレスを浴びせてくる。それらに対処せねば質の高いオナニーが出来ないことを考えると、やはり肉体よりも精神の安定により力を注ぐ必要があると思う。

 精神の安定を脅かすものは何も社会的ストレスだけではない。例えばヌきたいのに時間がないだとか、良いオカズが見つからないだとかも精神にとってはよろしいとは言えない。いや、オカズが見つからないのはそこまでか。本日のパートナーを求めてインターネットをさ迷うのもそれはそれはオツなものだと思う。しかし、その風流を愉しむにもまた時間が必要になってくる。とにかくこの世はじっくりと質の高いオナニーを実践するには時間が足りなすぎる。時間を制限してくるのも社会なのかと考えると、やはり社会こそがオナニーの大敵ではないかと考えてしまう。違う。社会を目の敵にしても何も解決はしないのだ。質の高いオナニーに必要不可欠な良質なオカズが作られ、我々の元に届くのもまた社会……!社会を「悪」と定義し、これを徹底的に叩くのは間違っている。目的は「敵」に勝ってではなく、あくまで自分自身の在り方を変えることによって達成されねばならない。特に何処までも孤高なる個人戦であるオナニーに関してなら尚更である。

 

 少し、熱を帯びすぎたと自省する。しかし、おかげでオナニー=究極の個人的事象であることを再認識できた。再び質の高いオナニーの為の安定について考えていく。オナニー=個人とすると、社会的ストレスも所謂「気の持ちよう」によって対処していくことが求められそうだ。だが、これは難しい。いくら性欲が理性を吹き飛ばしても、所々の問題からは逃れられない。しかし、少なくとも、オナニーの最中だけ没頭できればいいのではないか。言うなれば、「イった後のことはイった後の俺が考える」*2という考え方だ。どうだろうか。根本的な解決にはなってはいないが、「質の高いオナニーをする」という目的は達成出来るのではないだろうか。

 社会からのストレス、圧力に対しては一旦捨て置くという方法を採るとして、次なる問題は「時間の余裕を如何に持つか」という点である。これは要するに「オナニーにどれだけ時間を掛けられるか」という問いである。つまるところは、やはり個人の問題ではないだろうか。他のことを捨て置き、どれだけオナニーに余暇を捧げられるかそういう問いを己の性欲に投げ掛けられているのだ。どうだろうか。他の全てを捨てて質の高いオナニーを実践できるだろうか。

 

 問い掛けるような文章になってしまった。このブログはあくまで自分の個人的なことについて書き残すと決めている。だから、「自分はどうか」を答える。そして、答えるなら答えは多分「ノー」だ。「他の全てを捨てて」というのはまず無い。これは自分の性欲についての日記でも書いたが、いくら自分の中で性欲が首位を走っていると言っても、他にやりたいことが無い訳ではない。繰り返しになるが、新しいゲームを買った直後なんかは流石にそっちに没頭する。だから、質の高いオナニーの為に他の、その時やりたいことを我慢するというのは自分としてはしたくない。

 少なくとも自分はオナニーのみを楽しみに生きている訳ではない。オナニーが一番楽しみだとしても、他の2位、3位あるいはそれ以下の事柄を捨て置くことはできない。質の高いオナニーに必要な安定の為には、他の全てを捨て置いてオナニーの為に時間を割かなくてはならないのか。それは必須なのか。

 オナニー以外のことを楽しみつつ、質の高いオナニーを要望してもいいと思う。そこは我儘を言っていいところだと思う。オナニーしたいのも欲望なれば、他のことをしたいのもまた欲望だからだ。その時、その時の欲望に素直に生きればいい。自分はそう思う。いくら事前にプランニングをしていようと性欲の高まりは突然やってくる。そうなれば、自分は自然とオナニーという行動を取るだろう。その時、余裕を持ったオナニーをするよう心掛ければいい。オナニーが始まってから質の高いオナニーを意識すればいい。つまり、オナニーは生き物でアドリブなのだと思う。

*1:2019/11/8〜9頃

*2:より厳密に、イった直後の余韻もオナニーの範疇だと考えるとイった後ではなく、“ティッシュを捨てた後”とでもするべきかもしれないが。

出来ることなら、「良い」オナニーがしたい話。

 最近、オナニーが雑になってきている。という自覚があったので、「質の高いオナニー」しようと思い立ちました。なので、「質の高いオナニーとは」「それを実現するには」とか色々考えてみようと思ったのですが、週末になった途端、割りとどうでもよくなってしまいました。同じ文章を書くのに時間を掛けてはいけない。とつくづく思います。本文内の自分は気付けてないようですが、恐らくオナニーに掛ける時間を多く取ればオナニーの自己満足度は上がるよっていうだけの単純な話だと思います。

 

 最近というか、一週間ほど前からどうにもオナニーの質が悪いように感じる。いや、実際悪い。まさに「射精できればいい」かのようなオナニーになっている。これはいけない傾向だと思う。

 オナニーの目的はイくことなのだから、とりあえず射精に至れれば「成功」と言ってもよい気がする。しかし、違う。そうではない。そうではないんだ。ただ、イけたらいいかというとそうではないんだ。もっとこう、情緒とか、射精に至るまでの悶々とした心との対話とか、射精が近いことが手に取るように分かる感覚とか、果てた後の心地の良い虚脱感とか……そういう要素が私は欲しい。上手く言葉を選べているか分からないが、「心に余裕を持ったオナニーがしたい」。

 

 今一つ満足感の得られないオナニーライフが続いていたせいで、つい熱っぽくなってしまった。色々とオナニーに対しての要望を出したが、あまり拘りたくはないという気持ちもある。前にも書いた(かどうか記憶が怪しい)が、自分はオナニーを特別視したくはない。「拘ってはいけない」というと「拘らないというこだわり」が生まれてきてしまう。それはそれで永遠に悩める魅力的な問題ではある。だが、今手を付けると一向に日々のオナニーの向上が進まないので、またの機会とする。

 オナニーは飯を食べたり、風呂に入ったりすることと同じである。あくまで日常行動の一つと考えるべきだ、と自分は思う。だから、性欲の高まりの赴くままに素直に陰茎をシゴいて気持ちよくなればいいのだ。ただ、その日常の一コマの中に幸せや充足感があってほしい。日常の一つであるからこそ、オナニーから幸福を感じることを始めたいのだ。

 理想は、意識をせずに質の高いオナニーを日々行うことだ。しかし、やはり、これは難しい。特に「意識をせずに」という部分が難しい。当たり前だ。意識をするからこそ、「オナニーの質」という概念に出会うのだから。意識をしたか否かは意識をせねば判別できない。こんなことを思っていてはまた、ますますオナニーの向上から遠退いてしまう。

 では、どうするべきか。自分はこう考える。手始めに意識をして日々質の高いオナニーを実践する。それを繰り返すことによって、質の高いオナニーを日常、普段のものとする。さすればごく普通のいつも行っているオナニーが必然的に質の高いオナニーとなり、ここに「意識せずに質の高いオナニー」ができる状態が現れる。

 という算段を組んでみる。計画の流れとしては悪くはないと思う。となれば、次に現実性があるかないかが問題となってくる。「まぁ、ムリではないかなぁ……」という自己評価を下してみる。実際、色んな意味でイけそうな気がする。しばらく、続けてみて問題がないかチェック、あればそこを修正、という具合でどうだろうか。

 PDCAサイクルみたいになってきた。吐き気を催す。アレは「ちょっと生きるのが上手い人間が生きるのが下手な人間を滅多くそに殴っている」ような気がしてどうも好きになれない。自分はいつもDo出来ずにPlanばかり思い付いては消している。いや、まぁ、D出来るPを立てればいいだけと言えばそうなのだが。しかし、人間あまりにも出来ないと「計画を立てること」そのものを無意味と判断し出すから。これはマジで。

 という訳で、今回はかなり実行が容易そうな計画を立ててみた。まぁ、計画というには余りにもアバウトではあるが。予定は未定とかいう言葉もあるし、それくらいで丁度いいのだ。それに日々のオナニーはDo出来ている*1のだ。それを少し発展させるだけなのだから、夏休みの宿題だとか、卒業論文だとか、職場環境の改善だとかよりは実現の可能性は高い。

 という訳で、まずは一週間ほどオナニーをする際は意識をしてなるべく質の高いオナニーをするようにしてみようと思う。一週間ほど続けて「実行出来たか」「何か変化はあったか」などを振り返ってみる。しかし、オナニーというのは高まった性欲の捌け口であるので、する時に「計画」という極めて理性的な要素を念頭に置いておけるかはかなり怪しいと、やる前から思っている自分もいる。どうなるだろうか。

*1:ここでは“射精出来ればオナニーが出来た”とみなす

自分のオナニーすら語れなかった。

 最近のオナニーについて書こうと思ったのですが、書き始めてから特筆するべきようなオナニーをしていないことに気が付きました。そこから「なぜ特筆するべきことがないのにブログを書こうとするのか」を自分なりに考えてみました。考えてみた結果、最終的にはインターネットにありもしない救いを求めているという結論に至りました。もしくは、無理矢理「自分は救いを求めているんだ」という結論で妥協しました。もういいです。

 

 

 オナニーサイクルに依然として変化無し。オカズの内容についても特筆すべきことは無い。勿論、(あえて書くと余計に誤解を招きそうではあるが)「特筆すべきことはない」というのはオカズにした作品が凡庸で語るに値しないという訳ではない。どのオカズも自分を射精まで導いたのだから、素晴らしい作品だ。ただ、どの作品も“普通に素晴らしくて”*1今さら自分がわざわざ語る必要がないというだけだ。むしろ、知識に乏しい自分じゃ語れない、というのは一昨日*2の日記に書いた。別段お世話になったオカズについて一切語ってはいけない訳ではないのだが、何となく今は憚られるのでやめておく。

 これも件の日記に書いたこととの繰り返しになるのだが、 やはりこんな知識もなく思い付いたことをただ吐き出している個人のブログにおいてわざわざ客観的な視点から既に一定の評価がされている作品について語るのはあまりにも意味がない。それもわざわざ、ムリをして他人の目に留まりそうな流行りの語句を駆使して書くなんて、本当に何の意味があるのだろうか。“中高生の背伸び”なら微笑ましいが、大人の背はもう伸びない。みっともないし、恥ずかしくなる前に止めるべきである。

 

(偉そうに説教じみた文章を並べたが、全ては“自戒を込めて”だ。自分自身に対するブーメランなのだ。だから気にしないでほしい。今は過去の自分の書いたブログがただただ恥ずかしい。でも、消すのは何か嫌なので残している。)

 

 オカズは素晴らしかった。それが自分のオナニーにとってどう素晴らしかったのかなら背伸びをせずに書けそうだ。ただ、今はそれについても語る気になれない。それは単純に最近の自分の日々のオナニーが平凡だからだろう。特筆すべきことがないのは自分のオナニーの方、だったという訳だ。

 特筆すべきものはないのに、何故文章を書き始めたのだろうか。おかしな話である。話したいが、話題がない。或いは話題がないのに、話をしたいような状態である。

 そこには、もしかしたら、ひょっとして、自分のオナニーは特殊かもしれないという期待があったのではないか。いや、自分のオナニーを「特殊だと思ってもらいたい」というずうずうしい願望を持っていたのではないか。

 人は(主語を大きくするのはよくないが)、心のどこかで自分に特別な才能や要素があると思っているフシがある。しかし、大抵そんなものはなく、平凡、或いは平凡にも満たない存在だ。頭ではそれが解っていても、それを心から認めることは難しい。自分が平凡な人間だと心から認められる凡人はある意味すごい。自分への期待を一切捨てて、ただまともに日々を生きていく。それはストイックな生き方と言ってもいいのではないかと思う。自分には出来ない。

 自分は日常の、あるいは人生の、あらゆる場面で自分が凡人かそれ以下の存在であるという事実を突き付けられてもなお、自分に対して何らかの期待を抱いている。「もしかしたら、俺は結構すごいんじゃないか」「もしかしたら、俺はクリエイティブな仕事ができるんじゃないか」等と……。

 

 暗い話になった。しかし、事実だ。自分の日常は良くて平凡なシーンの連続だ。それを無理矢理、エピソードとしてブログに仕立て上げようとしている。特筆すべきことのない日常を認めようとせずにブログに晒そうとしている。ブログにさえすれば平凡以下の日常がコンテンツ足り得るものになると勘違いしている。

 わざわざ自分の外に出して、人に見せるようなことじゃない文章を世に出している申し訳なさがある。ただ、自分の中の鬱屈を吐き出すことによって少しでも自分が楽になりたいという思いがある。そういう自由は万人にある。その為に恐らく誰も見ないようなブログを作るサービスがある。と思っている。問題なのは、それをコンテンツ化しようとする烏滸がましさにある。いや、コンテンツ化させるという努力があればまだいい。あわよくば、コンテンツにならねぇなかなぁ……という甘い期待こそが癌なのだ。

「人間は自分で思っている以上に他人に気にされていない。」という事実は常に心に刻み付けておかねばならない。刻み付けつつも、自分のことだけを外部に吐き出し続けることで少しでも自分自身を救済したい。辛くても黙々とやっていきたい。石窟の奥で石壁に向かって呟き続けるような孤独に耐えようと思う。

 

 

 オナニーの話はまた今度にする。

*1:この“普通に素晴らしい”という表現も大概知能が感じられない言葉遣いだと思う。

*2:2019/10/23

冷静に考えれば独り言をインターネットに流すとか露出狂でしかない。

 自慰の話をしようと思ったんですけど、最近考えていること(を自分の脳内から外に出すこと)についての話になってしまいました。別の意味でオナニーですね。ブログは常にオナニーだから同じですけど。

 

 オナニーのサイクルに変化はない。今朝*1も一発出してから家を出た。

 昨夜は明日が仕事だというのに、かなり夜更かしをしてしまった。人生が一番楽しかった時代に出来た友人とのふれあいだったから仕方がないと思う。そんな友人との関係も互いに社会人になってからは悪い方向に傾いてしまったと思うのが最近の、いやもうここ2年くらいの悩みだ。恐らく原因は自分にある。自分が、社会人になったことで受けたストレスを学生の頃と同じように彼らに吐いてしまったから、彼らは気分を害してしまったのだ。彼らもまた社会人になり、余裕がなくなっているのだ。そのことを失念していた自分が悪い。反省しても遅い気がするが。

 やはり、社会に出るのは良くない。人は社会に傷つけられ、やがて殺される。とはいえ、別に今ここで社会批判をしたい訳ではないので、ここらで止めにしておく。友人との関係の話だって本題ではない。ただ、指に任せていたら打ち込まれていただけだ。でも、友人との関係の悩みを友達に話す訳にはいかないじゃないですか。結局はこうやってブログに書くか、夜道を歩きながらぶつぶつと声に出して暗闇相手にトークショーするかの違いしかない。誰かに見つかったら不審者扱い待った無しだろうが、そんなことは知ったことではない。口が勝手に声にして話すのだから。というか、もうぶっちゃけ不審者でもいい。多分、暗い夜道でぶつぶつと独り言を言ってはいけないみたいな法律はなかったと思うし、何も法律に触れてなくて、もう本人がそれでいいならいいだろ。

 こういうことは自分の頭の中だけに留めておけというのが社会からの通達か。いや、これでもかなり自分の中だけに抑えられるようになった方だ。小学生の頃なんて、思ったこと全部口に出してたぞ。それで「自分の意見をはっきり言えて偉い」とか褒められた。それが今では空気を読んで黙っていてもちっとも褒められやしないんだから、人生は辛いと思う。

 何の話だ。まぁ、その定期的に思ったことを「発表」しないとやってられないなってことだ。わざわざブログにしなくても、世の中にはそれ用のサービスもある。Twitterと言うのだが、これはダメだ。既に繋がりすぎている。具体的には件の友人数人とは相互フォローされている。相互監視とも言う。だから、まぁダメなのだ。とりあえず、友人達とは少しだけ距離を取ろうと思う。今までの関係を続けたいからこそ、ちょっとだけ繋がりを解く。

 ちなみに言えば、件の友人達にはこのブログの存在も作った時に言ってしまった、むしろ「ブログ作ったから見て」とまで言ってしまったからバレている。当時の自分を張り倒してやりたいが、そういうものなのであまり責めてやるでない。まぁ、今や多分誰も見てはいないはずなので、言わなきゃしばらくはバレないだろう。バレる頃にはバレても構わなくなってるハズだ。

「誰も見ていない」。そうだ。自分の中の考えを言葉にして外に発するだけなら、自分のPCの中のメモ帳にでも書き留めておけばいい。そうすれば誰にも見られる心配もない。それを何故わざわざインターネットに放流してしまうのか。それはきっと、見られたくないと思いつつ、見られたくもあるのだと思う。自分をよく知る近しい人には見られたくないが、自分を全く知らないどこか遠いところの人には見られたいのだ。見られてあわよくば、言及されたい。そういう欲が満ち満ちている。

 自己顕示欲、一般的には忌まわしいものとされる欲求。それに囚われているのだ。露出狂……そう言ってもいいのかもしれない。インターネットに何かを放つ人間は総じて露出狂の気がある。持論だ。

 露出狂と言えば、夜道で独りぶつぶつやるのも露出と言えば露出だ。出すのが言葉か性器かの違いしかない。ある意味言葉の方がより自分のありのままの姿であり、外に出すには憚られるものかもしれない。そして、夜道でぶつぶつやりながら、それを誰かに聞かれてしまいたいと、ふとした瞬間に思ってしまう。それはすぐに自ら否定するのだが、全て聞いているのは道中の家々のコンクリート壁だけだ。無論、コンクリートは何も言わない。何を言っても反応がない。冷静に考えればそこには虚しさしかないことは当たり前に理解できるが、精神が不安定な時などは実際にやらかしてみるまで気付けない。

 

 誰にも聞かせるべきではない話を語っている。近しい人に「聞いた」と言われれば死ぬほど恥ずかしい内容なのに、全世界に発信している。聞かれたくないのに、聞いて欲しい。二つの感情が自分の中のでせめぎ合うのを遠くに眺めつつ、実はもう勝負がついていることからは目を背けている。

 聞いて欲しい。もしかしたら、誰かが聞いているかもしれないという、一抹の希望を抱いてしまっている。もう、暗闇やコンクリート壁にお相手は務まらない。

*1:2019年10月23日(水

知識がない以上、自分のオナニーについて話すしかない。

 何か仕事中に悟りを得て「オカズについては語れなくても、自分のオナニーについてなら語れる」。という結論に至りました。そして、何でそういう結論に至ったのかを説明するというのをブログのネタにしようとしたのですが、何かダラダラとした文章を書いていました。文章の初めと終わりで言ってることに矛盾とかあるかもしれません。

 

 

 性欲の話。今朝は射精に至らなかった。理由は時間がなかったからだ。もう5分あればイけたかもしれない。お陰で微妙に悶々としている。

いや、正直にムラムラと言った方がいいのかもしれない。しかし「この感覚」はそんなに攻撃的というか積極的な感じではないのだ。もし、眼前に絶好の美女が現れて、彼女に何をしても許されるのなら………という訳ではなく、あくまでこの性衝動はオナニーで解消したいという感覚だ。

 

 とはいえ、自分は別にオナニーを神聖視している訳ではない。ただ、二人以上のエッチの経験がほぼゼロ故に「性欲はオナニーで解消するもの」というのが無意識の内に常識となっているだけだ。両者の内、一方が上で一方が下というような優越性の差異は恐らく無いと思う。少なくとも自分の中においては。

 だからなのか、オナニーにも別に特に強い拘りがあるわけではない。常にその時自分が一番至り易い体勢でするし、その時自分が興奮するものをオカズにする*1

 ただ、これは拘ろうと思って拘っていた訳ではなく、自然とそうなってしまっただけなのだが、基本的には自分の右手でしかイけない。この辺りの悲しくもしょうもない話はまた機会があればしたい。もしかしたら、所謂床オナなら出来るかもしれないし………

 

 今日はオカズの話をしたかったのでする。やっと、する。

 前述の通り特にオカズには拘りがある方ではないと思う。ただ、まぁオナニーのオカズに関わらずこのテの「自称:拘りがない」や「何でもいい」はよくよく話を聞いてみると拘りとかNGの塊なので信用してはいけない。自分も信用していない。文章にしていなければ、流してしまうところだった。危ない。

 さて、オカズに対して拘りがない(と言いつつある)訳なのだが、それを言葉にするならば「食べやすいオカズじゃないとダメ」といったところだろうか。自分で書いておいて無理矢理だなと感じる。

 具体的にはグロ、スカ、リョナ……後は寝取られる男視点のNTRといったところ。ちょっとクセの強いものは避けたがる子供舌だ。でも、女の子がしゃがんでう◯こひり出す時の姿勢は究極的にエロいよね。後、どんなに綺麗なお姉さんでも、ぶっという◯こしてるのかと考えると、結構興奮するな???そういう点では、むしろ自分はアイドルほどう◯こしてて欲しい。インスタにお洒落なパンケーキの写真と便器に召喚された健康的なう◯この写真を同時に上げてフォロワーの選別とかやってほしい。自分は見ないけど。

 

 誰が外に出たう◯こなんて見たいかよ。

 

 せめて、排便してる瞬間にしろ。それなら、まぁ……………可愛い娘なら見るかな………

 

 待って欲しい。スカトロの話がしたかった訳じゃない。本当はもっと、食べやすい、綺麗な絵柄とか、ムチムチで巨乳、それでいて奇乳の域には陥っていないような、そんな祝福されたオカズについて語りたかった。これは旨かった!心から、自信をもってそう言えるエロコンテンツについて語りたかった……

 しかし、悔やむべきは己の知識の無さ。語りたいエロコンテンツは数多あれど、自分の脳が書ける文章は「おっぱいが大きくてよかった。すき」くらいのものだ。違う。本当はもっと、せめて中学生が書く感想文程度の語彙は欲しい。が、如何せん知識がない。

 

「これはAV女優に限らないんですけど、女の人の髪型が変わっただけで顔認識機能がエラー吐くんですよ……」

 

 残念だ。このことから自分はAVを見る際、女優を顔や体で見ていないことが分かる。アニメのキャラくらい記号化されていないと認識できないのだろう。

かと言って、二次元に限って言っても、絵柄だけでエロ漫画化が判別できる訳ではない。これは絵柄、画風に拘りを持たないという訳ではなく、単に知識不足だと思っている。「この作家の絵なら絶対に分かる!」というほど読み込んでいないだけの話だ。もっというなら、この「作家の作風はこうで〜」みたいな解説ができない。いや、解説なんて膨大な知識に裏打ちされた丁寧なもの以外は疎まれるだけなのは分かっている。分かっているけど、それを知らない人にちょっとオススメできるくらいの知識は欲しいのが何というか性だ。何の性かは分からないが。

 勿論、効果的に紹介するには文章の書き方も重要だ。しかし、よく知らないことについては書けない。書けても超絶薄い文章になる。「いかがでしたか?」よりも薄くなる。3発目の精液くらい薄くなる。とにかく、知識の伴わない紹介文は読んでいてもつまらない。分かったか!?1、2年前の俺!?

 

 結局、オカズについては現状何も語れない。でも、自分の自慰については言いたい。吐き出したいのだ。今日はこんなんでヌきました。ここが良かったです。みたいな感じで。

 

 ああ。そうか。それでいいじゃん。自分のオナニーについて書けばいいじゃん。簡単なことに今まで気が付かなかった。「オカズの素晴らしさについて」なんて、わざわざ自分が言及する必要も意味もなかったのだ。それよりも、自分がどう勃って、どう果てたのかを書けばいいんだ。読書感想文の書き方が10年越しくらいに分かった気がする。

 

「オカズについては語れなくても、自分のオナニーについてなら語れる」

 

 この事実が言いたくて、5日間ほど平日の空き時間にだらだらと文字を重ねていた。或いは自分がどうやってこの事実に至ったのかを思い出したかったのかもしれない。文章にしてみるという作業は偉大だった。書く前から言いたいことは分かっていたが、ここまで書いて初めて自分の中の線が繋がって輪になった。正直言って「何を言ってんだ……コイツ……」という方が大半だと思う。自分の感覚は自分にしか分からないのだから。しかし、今自分の気持ちはとても晴れやかだ。いや、書き出す前より幾分晴れに近付いた。よかった。

 

 ブログもオナニーだ。自分の為に書くのだ。これからも書く。書きたい。言いたい。

*1:この点については「今日はコレで」程度の拘りはあるが

実家の猫が亡くなったのに……俺は……

 実家で飼っていた猫が亡くなったらしい。今朝通勤途中に親父からメールが来て知った。

 それにしても、飼い猫が亡くなって「悲報」とは……?せめて、「訃報」では……?そんなことはどうでもいいのに、腹を立ててしまう自分が悲しい。そして、猫が亡くなったのに自分のあり方に悲しさを覚えているあたり、もう既に雲行きが怪しい。

 

 職場に付いてから、就業開始時刻までの間で実家に電話をする。母が出たのは良かった。「悲報。」から始まるメールを送りつけて来つつも、あの親父が猫の世話をしているシーンはついぞ最期まで見ることはなかったからだ。多分、本当に可愛がっていたのなら、遠方に住む息子に亡くなった次の日の朝一番でメールしてくる余裕などないだろう。と言いつつ、電話を終えて、こんな文章を書き始めている自分も十分同じ穴の狢な訳だが。

 

 あんまり、世話してやれなかったなぁ……

 

 親孝行 したい時には 親は無し

 

 みたいな感じなのだろうか。小学生の時の自分が名前までつけてやったのに、最後の思い出は盆に帰省した時に自室の前に陣取っていたヤツとバトルしたことだ。もう一度バトルしたかったなぁ……俺はライバルに先立たれた少年漫画のキャラか。

 

 母親とのやり取りで亡くなるまでの流れを聞いた。3,4日前から徐々に元気が無くなっていってたこと。亡くなる前日はまだ水を飲ませてやろうとする母の手に抵抗していたこと。それでも、母がパートから帰ってきたら……もう、亡くなっていたこと。

 遺体は庭に埋葬したとのことだ。6年前だったか、飼い犬が亡くなった時と、恐らく同じような感じで埋葬されたのだろう。犬の時は自分もまだ学生で、穴を掘ったことを思い出した。母も思い出していた。

 今回は自分も妹も実家を出ていて、残るのは母と腰の曲がった祖母、そして冒頭で述べた親父だ。母は一人で猫を埋葬したという。言われなくても、そうだろうなと容易に想像が出来た。

 

 親父からのメールで知ったことを述べると、死者の話の前に親父への不満の話から始まった。

「メールするとかいう簡単で美味しいところだけする。穴掘るの手伝ったりとかは全然しない」

 離れて暮らす子供達に訃報のメールを送ることが「美味しい」ところかは分からないが、母の怒りとか落胆とか諦めはよく分かる。自分が実家にいた頃からそうだからだ。自分からすれば「訃報のメールを送ること」すら満足にこなせていなかったが、何やねん。悲報って。

 

 電話口の母の声はいつもと変わらなかったが、猫の話を聞かせてくれていた最中に

「アカン。喋ってたら思い出してもうて……」

 と弱々しい台詞が飛んできた。しまったと思った。親父からのしょうもないメールなどではなくて、母の声で直接聞きたくてすぐに連絡したのだが、浅はかだった。親父のいい加減で他人事じみた文面のメールではなくて、母の口から聞きたいという自分の感情を優先させてしまった。一番ショックを受けているのはどう考えても亡くなる間際まで世話をしていた母だというのに……

 結局は「俺は親父と同じか」と自分で自分が嫌になった。昔から「お父さんに似ている」と言われるのは好きじゃなかった。親父は、はっきり言って「カッコいい」とは言えなかったし、今も言えない。見た目も中身もだ。見た目の類似を指摘される方が嫌だった。しかし、今は圧倒的に中身の類似を指摘された時が激しく落ち込む。他者に指摘されずとも、自分で気付いた瞬間はとかく自分が嫌になって笑けてすらくる。

 流石に今回は猫の死があり、笑いは起きない。しかし、明らかに猫に死よりも、親父との類似性に鬱屈とした気分になっている自分がいる。そして、そんな自分とそんな自分を冷静に観察している自分にまた腹が立ってくる。

 

 母が椎間板ヘルニアを患ったことを電話の終わりにさらっと告げられた。マジかよ。恐らく、母に対して親父のサポートとかはない。特別母親想いではないが、今まで散々親父が面倒事をスルーして母親に問題の全てが向かう様を見てきたので、どうかもっと幸せになってほしいと思う。しかし、思えば思うほど、父と大差のない何一つとして母の助けにならない自分がいる。

 

 猫の冥福より、母の身を案じずにはいられない朝だった。

 

 

 いや、違うな。猫の死よりも、それを受けた母の状態、さらにそれを受けた自分の状態ばかり気にしている。これがまた自分の嫌なところだなぁと思う。いや、そこまで嫌だとは思わない。ただ、他人や社会からは好ましく見られない要素だとは思う。

 ある時期までは長年一緒に暮らしていた猫が亡くなった。それは悲しくて、寂しいことだと思っている。思っているのだが、今一つ喪失感というものがない。そして、自分の心の状態があまりにも平穏としていることに気付く。

 もう自分のことしか考えられない。

 

 十年以上一緒に暮らしていた猫が亡くなったのだ。本来ならブログなど書ける状態にあっていいはずがない。可愛がっていた母に悲しさを思い出させるような電話をしていいはずがない。

 

 猫を悼む気持ちも、母の現状を憂う気持ちもある。それはあるが、結局は自分の状態ばかり見つめてしまうのが自分が…………嫌だと言えるのだろうか?