イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

結局はどれだけオナニーに人生を使えるか(でも、他のこともしたい)

 前回の日記で書いた「意識して質の高いオナニーをするようにする」試みについての中間報告的な感じを目指して書き始めたのですが、時間が掛かり過ぎました。最終報告は本文中と注釈にある日より後になると思います。まぁ、別にどうでもいいことですが。テーマは「質の高いオナニーには心身の安定が必要だと思ったんで、その辺をまとめてみた」……と標榜出来ればよかったんですけど、全然まとめられてないです。結論としては「質の高いオナニーをしても、なお余りある余暇が欲しい……」ですかね……?何だかんだ言っても、オナニー以外にしたいこともある訳ですらね。

 

 下らないことであっても、やはり通勤中や仕事中の方が思考はよく巡る。いや「労働」というストレスがないと、下らないことについてすら思考することが出来ない。休日というのは実に頭が動かないもので、目先の分かりやすい快感にのみ食い付き、これを貪ってしまう。むしろ、分かりやすい快感を貪れている時はまだマシで、どの快感を喰らおうか迷っている間に平日が訪れた時の絶望は思い出したくもない。平日に比べれば休日の価値は数百倍も高い、それは分かっているハズなのに、その高価な休日をまたも無駄にしてしまった。そして、そのことをまた平日に悔やむという輪廻。少しでも改善したいと思う。そんなわけで、やはり平日の空き時間に文をこねくり回す。

 

 やはり、自己のオナニーの話をするより他あるまい。件の「意識して質の高いオナニーをするようにする」実験についてだが、まだ道半ばといったところだ。最終的な結果は今週末*1にご報告できたらいいなぁと思っている。が、これすらもやはり未定な予定であることはご容赦願いたい。

 

 誰に容赦を請うているのか。このブログは個人的事象の掃き溜め。死んだ精液を包んだティッシュのようなもの。その程度の価値しかないが、代わりに誰にも遠慮はしなくてもよいハズだ。そう思って綴っている。

 

 道半ばではあるが「質の高いオナニー」について少しだけ分かり始めたことがあるので、自分のために記しておきたい。「分かり始めた」と書いたが、実は前回の日記を書き終わる頃には既に思い至っていた。あるいはもっと前から薄々と感じてはいたのかもしれない。それほどまでに普遍的で当たり前のことだが、一応言っておく。「質の高いオナニー」が出来るかどうか、それは「如何に肉体的、精神的に安定した状態でオナニーが出来るか」である。当たり前のことをまるで大発見をしたかのように書いている恥ずかしさを感じる。恥ずかしさを感じているので、厚顔無恥っぷりについては赦されたものとする。

 という訳で「肉体的、精神的に安定した状態でするオナニー」についての話をする。とはいえ、これはそのままの意味で、(くどくなるが繰り返す)オナニーする者であれば皆心得ている基本中の基本と言えることである。自分自身も、これについては恐らく肉体とか本能レベルでは理解をしていた。ただ、こうして自分の日々のオナニーを文章にして振り替えるという試みを始めたことによって初めて、頭での理解、感覚ではなく言葉での理解ができたように思う。せっかく、質の高いオナニーを言語化できる機会が巡ってきたのだから、もう少し具体的に書いて完全に自分の中に留めておきたいと思う。

 

 まず初めに「肉体的、精神的に安定した」状態を明らかにしておく必要がある。これは各人において違うので一概には言えないが、要するに「何の不安もなくオナニーに集中できる」状態のことであると思う。肉体面で言えば、例えば利き手を骨折している状態では満足に陰茎を扱けないだろう。或いはオナニーする元気もないほど身体が疲労しているなども肉体面の不安と言えるだろう。ともすれば、肉体面の安定を求めるならば、「良いオナニーは良い体調から」となるだろう。まずは体調を整えるというか、健康でなければならないという訳だ。労災防止の話みたいで労働を想起してしまい何ともイヤになるが、事実なので仕方がない。

 他方、精神面はどうか。精神面の安定とはこれつまるところ、オナニーを行うに際してストレスがない状態である。オナニーをしようと思っても、ふと次の日に待ち構える試験、発表、期限などが脳裏を過れば質の高いオナニーなど到底出来ないだろう。「次の日に大事があればオナニーなどしないだろう」という指摘もあるかもしれない。甘いと思う。大抵の大事というのは社会によって課される。しかし、オナニー、つまり性欲は社会の以前、生物としての根本的欲求に依って呼び起こされる。社会的欲求などお呼びではないのだ。オナニーに生きる者、ムラっとすればヌく。翌日の大事など、俗世のノイズに過ぎず、質の高いオナニーにとっては邪魔でしかない。というのは言い過ぎであろうか。しかし、個人的にはそれほどに社会というものに意味を感じない。自分の性欲の発散と社会とを天秤に掛けると、社会など割とどうでもよいもののように感じる。

 

(とはいえ、オナニーの供たるオカズを産み出してくれているのは社会であって、ここに消費者にしかなれない者の身勝手さが垣間見えて自分で自分に嫌気がさしもする。)

 

 話が逸れた。肉体面、精神面の安定についてまとめると、「体調を健全に保ちつつ、ストレスも受けていない状態」がこれと同義だと言える。

 さて、質の高いオナニーにとって必要な安定については明らかにできた。そして、個人的には肉体面よりも精神面の安定の方がオナニーにおいてはより重要だと感じる。その理由だが、まず肉体の不調が過ぎる時というのはそもそも物理的にオナニーが出来ない状況だ。逆に精神のみが不調な場合というのはどうか。これはオナニー出来るだろうと考える。少なくとも自分はオナニーする。余程痛烈な精神的ショックを受けてでもいない限り、人はいつものようにムラムラする。つまるところ、オナニーができない程の肉体面の不調はどうしようもないのである。だから、肉体がオナニーOKな場合に精神が応えられるよう、精神面の安定を重視する必要があると考えるのだ。

 加えて、肉体と精神を比べれば精神にダメージを負う機会の方が日常の中では遥かに多いと思う。精神面の安定についての段でも書いたが、現代社会というものは驚くほど無神経に個人に対してストレスを与えてくる。暑い、寒いなどの身体的ストレスだけでも大概なのに、それに追加して、やれ税金だ、効率だと死人に石を載せるがごとくストレスを浴びせてくる。それらに対処せねば質の高いオナニーが出来ないことを考えると、やはり肉体よりも精神の安定により力を注ぐ必要があると思う。

 精神の安定を脅かすものは何も社会的ストレスだけではない。例えばヌきたいのに時間がないだとか、良いオカズが見つからないだとかも精神にとってはよろしいとは言えない。いや、オカズが見つからないのはそこまでか。本日のパートナーを求めてインターネットをさ迷うのもそれはそれはオツなものだと思う。しかし、その風流を愉しむにもまた時間が必要になってくる。とにかくこの世はじっくりと質の高いオナニーを実践するには時間が足りなすぎる。時間を制限してくるのも社会なのかと考えると、やはり社会こそがオナニーの大敵ではないかと考えてしまう。違う。社会を目の敵にしても何も解決はしないのだ。質の高いオナニーに必要不可欠な良質なオカズが作られ、我々の元に届くのもまた社会……!社会を「悪」と定義し、これを徹底的に叩くのは間違っている。目的は「敵」に勝ってではなく、あくまで自分自身の在り方を変えることによって達成されねばならない。特に何処までも孤高なる個人戦であるオナニーに関してなら尚更である。

 

 少し、熱を帯びすぎたと自省する。しかし、おかげでオナニー=究極の個人的事象であることを再認識できた。再び質の高いオナニーの為の安定について考えていく。オナニー=個人とすると、社会的ストレスも所謂「気の持ちよう」によって対処していくことが求められそうだ。だが、これは難しい。いくら性欲が理性を吹き飛ばしても、所々の問題からは逃れられない。しかし、少なくとも、オナニーの最中だけ没頭できればいいのではないか。言うなれば、「イった後のことはイった後の俺が考える」*2という考え方だ。どうだろうか。根本的な解決にはなってはいないが、「質の高いオナニーをする」という目的は達成出来るのではないだろうか。

 社会からのストレス、圧力に対しては一旦捨て置くという方法を採るとして、次なる問題は「時間の余裕を如何に持つか」という点である。これは要するに「オナニーにどれだけ時間を掛けられるか」という問いである。つまるところは、やはり個人の問題ではないだろうか。他のことを捨て置き、どれだけオナニーに余暇を捧げられるかそういう問いを己の性欲に投げ掛けられているのだ。どうだろうか。他の全てを捨てて質の高いオナニーを実践できるだろうか。

 

 問い掛けるような文章になってしまった。このブログはあくまで自分の個人的なことについて書き残すと決めている。だから、「自分はどうか」を答える。そして、答えるなら答えは多分「ノー」だ。「他の全てを捨てて」というのはまず無い。これは自分の性欲についての日記でも書いたが、いくら自分の中で性欲が首位を走っていると言っても、他にやりたいことが無い訳ではない。繰り返しになるが、新しいゲームを買った直後なんかは流石にそっちに没頭する。だから、質の高いオナニーの為に他の、その時やりたいことを我慢するというのは自分としてはしたくない。

 少なくとも自分はオナニーのみを楽しみに生きている訳ではない。オナニーが一番楽しみだとしても、他の2位、3位あるいはそれ以下の事柄を捨て置くことはできない。質の高いオナニーに必要な安定の為には、他の全てを捨て置いてオナニーの為に時間を割かなくてはならないのか。それは必須なのか。

 オナニー以外のことを楽しみつつ、質の高いオナニーを要望してもいいと思う。そこは我儘を言っていいところだと思う。オナニーしたいのも欲望なれば、他のことをしたいのもまた欲望だからだ。その時、その時の欲望に素直に生きればいい。自分はそう思う。いくら事前にプランニングをしていようと性欲の高まりは突然やってくる。そうなれば、自分は自然とオナニーという行動を取るだろう。その時、余裕を持ったオナニーをするよう心掛ければいい。オナニーが始まってから質の高いオナニーを意識すればいい。つまり、オナニーは生き物でアドリブなのだと思う。

*1:2019/11/8〜9頃

*2:より厳密に、イった直後の余韻もオナニーの範疇だと考えるとイった後ではなく、“ティッシュを捨てた後”とでもするべきかもしれないが。