イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

1月1日元旦から3度もオナニーをした。

年が明けた。「だからなんだ」という気持ちでいっぱいになるのは毎年のことだ。そもそも、新年がそれほどめでたいことかは常々疑問に思っている。確実に、着実に「死」へと歩みを進めているだけではないか。それを言うと、そもそも「死」が忌まわしいものなのかも怪しいものだが。

 

OK。この話は止めよう。やっぱり、新年のおめでたそうな雰囲気に「ちょっと違うんじゃない?」っていうのはクソダサいわ。何かこう「一般大衆と違う視点持ってる俺カッケー」みたいなクソ寒い感じがギュンギュンとする。そういうのはもうそろそろ卒業したいと思う。

とはいえ、一つだけ言いたかったことがある。それは「年が明けたから何かが変わる訳ではないよ」ということだ。今のところは、去年と変わらずに生きていく所存だ。

 

やはり、オナニーの話をしたい。昨年は最後に更新した後は駄文未満の書きかけの文章の羅列をいくつか産み出していた。さらに「書きかけの文章ばかり増えていることを嘆く」というテーマで書き始めたりもした。もちろん、それも書き上がることなく書きかけの仲間入りを果たした。頃合いを見て消そうと思う。出したものは消そうとはあまり思わないが、産まれなかったものは整理の意味でも割と消したくなる。後、やっぱり文章っていうのは思い立った思いが生きている内に書いてしまわないとダメなんだなとつくづく思う。自分の中で巻き起こったブームや自分の心の動きについて書いてみようとしても、時間が掛かりすぎると心の方が別の動きに移っていってしまう。鮮度なんだ。時事について書くなら勿論のこと、自分について書くにしたって鮮度という要素は無視できないのだ。

オナニーの話に移れない。移る。年末年始は実家に帰っていた。家族の目があるからオナニーができなかった……かというと、そんなことはない。むしろ、実家を出る前は実家でオナニーをしていたのだから、何も問題などない。一週間ちょっとの間元の状態に戻っただけだ。

質の良いオナニーが出来たかというと、それは少し難しかった。やはり、自分一人しかいないワンルームとは違う。多少ではあるが家族の存在が、脳では気にしないようにしていても身体では気になってしまう。微妙に集中できなかったと正直に告白してもいいかもしれない日々だった。

しかし、繰り返しになるが、かつてはそういう環境の中でオナニーしていたのだ。むしろ、自室でのオナニーを家族に目撃されたことも二、三度ある。幸い、何れもまだ服を脱いだだけの段階だったので軽傷で済んだが。後、家族共有のノーパソに蛯原友里アイコラを保存していてそれを母親に見られそうになって、慌ててノーパソ抱えて家の中を走ったこともある。今思い返せばあの態度は絶対バレてたと思う。

家族の存在、それよりもよりオナニーの妨げ(という言葉を使いたくはないのだが)となったのは、自室のベッドだ。アパートの寝台の上に敷き布団を敷いただけのベッド(笑)とは比べるのも失礼な正真正銘のマットレスだ。このベッドに16年くらい体を預けていたのだ。単純に気持ちが良い。体を横にするだけで疲れがみるみる取れていき、気付けば夢の中だ。素晴らしいベッドだと思う。俺の知ってるベッド殆どコレとビジネスホテルのヤツくらいだけど。

まぁ、そんな素晴らしいベッドだから、オナニーしようと寝転がっても快楽より先に睡魔に堕とされてしまうという訳だ。それはそれで至福でした。本当にありがとうございます。

そういえば、自分のオナニーのスタイルについて書いたことはあっただろうか。自分の右手でしかイけないという話はしたが、それ以外はどうであったか。もしかしたら繰り返しになるかもしれないが、この文章しか読まない人もいるかもしれないので改めて書いておく。既に知っている人はどうかご容赦を。

基本的な自分のオナニーは寝床に仰向きになって、自分の右手で自分のモノを扱いて果てる。イく瞬間までの過程の段階ではうつ伏せでモゾモゾやったり、脳内イメージだけで精神を昂らせたりなど色々やったりもするが、原則としてイく時は上記の姿勢になる。

後はこの方法よりも頻度は少ないが椅子に座った状態で扱いてイくこともある。このスタイルは主にPCでエロコンテンツに触れている時に昂って、そのままオナニーに移行する時の形だ。しかし、基本は前者の仰向けオナニーだと思って頂いて問題はない。

後、服装は全裸が多い。オナニーを覚えてしばらくは全裸にならないとイけなかった。今でも全裸でするのが一番気持ちが良い。肌全体を寝具の柔らかい感触に撫でられるのも非常に好ましい。最高だ。

質の良い寝具は質の良いオナニーを生まないのか。いや、そうではない。自分の場合はただ単純に「いくらでも眠っていていい」という休日の安心感に日々社会で磨耗していた精神が耐え切れなかっただけだ。もっとも、普段から少しの苦でも避けようとする人間なので、そこまで磨り切れるほどの思いはしていないのだが。

オナニー自体は割りとしっかりやっていたと思う。帰省中オナニーしなかった日は1日くらいだったと思う*1。何ならその日の昼過ぎには実家を発たなければならない最終日ですら、10時くらいにイったりしてた。

個人的に特筆しておきたいオナニーのエピソードがある。新年2日目に自分は出掛けた。電車に揺られて街に出て、買い物客で溢れる商業施設に入ったところで便意を催した。「家でしてくりゃよかったな……」と後悔しつつ、やっと空いているトイレを見つけ、排便をした。したところで、ふと気が付いた。

「コレ、何気に新年初ウンコだな……」

その瞬間また別のことが脳を過った。

 

「そういや、昨日は3回もオナニーしたな……」

この瞬間、「排便回数1 射精回数3」という2020年の自分の記録を意識してしまった。今は流石に違う(それ以降排便も射精も回数はカウントしていない)が、1/2の時点では2020年、ウンコした回数より射精した回数の方が3倍多い男だったのだ。その事実に気付いた時、何と言うか非常に感動していた。

「日に3度のオナニーなど普通だ。わざわざ文章で報告することじゃない」と言われるだろう。確かにそうだ。一般的な視点で言えば射精回数が排便回数の3倍になることなど、全然あり得る普通のことだ。しかし、自分はあくまで自分の心の有り様の記録として文章を書いている*2。その時、自分は自分に感動したのだ。

「ああ、俺ってやっぱりオナニー好きなんだな」

と。そういう再認識が出来たことがよかったのだ。便意と性欲、どちらも人間の根源的な生理的欲求だ。その同じ生理的欲求の中で回数という限られた要素のみではあるが、性欲が便意に対して優位を付けたのだ。この事実が自分としてはとても誇らしいと思うのだ。

もう一つ素晴らしい点がある。それは2日に排便をするまで、元日に3度オナニーをしたことに気付かなかった点だ。要するにオナニーをした元日当日は特に意識をすることなく、ただ性欲の赴くままに3度のオナニーをしていたのだ。

意識していなかったが故に、自分はこの3度のオナニーを覚えてはいない。何をオカズにしたのかも今となっては全く分からない。ただ「3度した」ということだけを覚えている。それほどに無意識なオナニーだった。そして、その無意識さに大きな意味がある。

日に3度、あるいはそれ以上の回数のオナニーも、する“だけ”なら存外に容易い。しかし、それはしようと思わなければしない。つまり、思考や意識という人工の要素がなければなし得られないのだ。

それに対して自分の元日のオナニーはどうか。極めて無為な自然である。自然と自分の中で沸き上がった性欲のなすがままに扱き、果てていた。それこそ後にはオナニーしたという事実だけが残されたような、そんなさらりとした流れるようなオナニーの日だ。

意識をして質の高いオナニーを実践することと、覚えていないほどの無意識下で自然にオナニーをすること、どちらが良いのかは分からない。ただ、今の自分は意識して回数を重ねるオナニーよりも、忘れてしまうほど自然なオナニーの方が価値があるのではないか。と、少しだけそう思っている。

自分が冒頭のように新年をさも意味ありげな区切りとして扱うことに懐疑的なのは自然に反しているからだと思う。「年が明けたから何かを頑張る、年が明けたから去年とは違う自分を目指す」。そういう考えは間違ってはいないと思うが、ただ賛同できない。それよりも、今回の自分のオナニーのように、年が明けても、明けなくても、ごく当たり前のようにずっと続けていたことを続けていくこと。そういう自然さをより尊いことのように思う。

 

オナニーの質という点では忘れてしまうようなオナニーはあまり好ましいものではないのかもしれない。しかし、年明けの実家において何物にも気兼ねすることなく、ただ己の性欲のみに従って、日に3度もオナニーが出来たことはとても幸福なことのように思える。それこそ、自分にとっては初夢の一富士二鷹などにも負けずとも劣らない瑞兆なのだ。めでたい。

 

2020年、少なくともオナニーに関しては絶好のスタートを切れたことをここに報告して今日は終わりにします。

*1:それでも、“しなかった”からクリボーの教えには背いてしまっている

*2:それ以外の理由もあるが