イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

社会、行き当たりばったり、オナニー。

オナニーの話なんですけど、いつにもまして文章がぐちゃぐちゃしました。

 

最近、性欲が減退して来ていると思う。いや、性欲の減退というよりはオナニーの回数が減ってきている。エロコンテンツへの興味はむしろ増していて、年が明けてからまだ一月しか経っていないのに、明らかにエロコンテンツへの出費が嵩んでいる。「嵩んでいる」という言葉を使うと、まるでそれが悪いことのように聞こえるが、基本的にはいいことだと思う。ただ、自分も無限に金を持っているタイプの人間ではないので購入するコンテンツは吟味をした方がいいのは確かだ。とはいえ、ムラムラっとした衝動に任せてエロコンテンツを買ってそれでヌくというのは、ある意味もっとも贅沢で、気持ちの良いオナニーと言える気もする。

身に纏っていったエロコンテンツの量と反比例するようにオナニーの回数は減っていった。具体的には去年まではほぼ毎日やっていた朝の出勤前オナニーを年明け以降は殆どやっていない。試みても制限時間までに射精まで至れなかったことも数度あったので「出来ていない」とも言える。その理由は色々と考えられるが、一番の理由は年末年始の休暇で生活リズムが狂ったからだと思う。「狂う」と書くとやはり悪い印象が付きまとうが、要するにいつもと違う時間感覚、精神で生活をしていたというだけのことだ。出勤前オナニーとは「毎朝決まった時間に目を覚まし家を出なくてはならないという日々の中で、家を出るタイムリミットまでにイけるかどうかというある種ギリギリの闘いのようなオナニー」だ。それが休暇中では起きなくてはならない時間という前提がないので、出勤前オナニーという概念がそもそも成立しない。そういう日々が1週間超あった。期間にしてみればそこまで長くはない。しかし、どうやら、オナニーのサイクルを変えてしまうには十分過ぎる期間だったようだ。

出勤前オナニーをしなくなった(あるいはやらなくなった)ことには実はそこまで問題はないように思う。ただ「最近、朝オナニーしてないなぁ……」という自分自身のオナニーサイクルの変化への戸惑いくらいしかない。その戸惑いも戸惑った次の瞬間には忘れ去っている程度のものだ。むしろ、出勤前オナニーは時間との闘いになるが故、幾ばくか無理矢理に射精をするという側面を孕んでいる。これは恐らく、客観的あるいは科学的に見れば恐らく好ましいものではない。そう考えると、出勤前オナニーの習慣が途切れつつあるというのは自分の健康面としては良い変化なのかもしれないとすら思う。

「健康的なオナニー」というテーマでは自分は語れない。医学的な知識を持ち合わせないし、語る為に持ち合わせようとも思わないからだ。そもそも、たかだかブログなる個人的な趣味の文章作成の為に身に付ける知識など付け焼き刃にも劣るだろう。自分はそういうのは好まない。かといって、その後の自分の為にといって本格的に学ぼうとするほどの勤勉さも持ち合わせていない。だから「健康的なオナニー」についてここで語ることはしない。

ただ一つ、自分が語れる分野言えば、やはり自分のことだ。特に有益な情報を発信しないと決めたブログはどこまでいっても自分語りをするより他ない。そのようなブログに価値があるのかといえば確実に無い。しかし、価値がないことと、存在してはいけないことはイコールではない。価値あるコンテンツ(足り得る)ものしかインターネット上に存在することを認めないという考えの人の視界にこの文章が出現しているとも思えない。だから、自分は好き勝手に自分のことだけを書いてやる。それは自分の為だ。自分さえ良ければそれでいい。

宣言通り、自分のオナニーの話を盛大にする。現在、出勤前(朝)のオナニーの習慣がなくなりつつある訳だが、その分を就寝前(夜)のオナニーで補っているかと言われるとそうでもなかったりする。勿論、夜オナニーに耽る日もある。しかし、それは朝にオナニーをしなかったから補填として夜にオナニーしている訳ではない。ただ、夜にオナニーせざるを得ないほど性欲が高まったからしただけだ。朝もオナニーせず、夜もオナニーしなかった日もある。余り無いが確実にあった。「オナニー出来ない日はあってもしない日はない」とか何とか豪語したような記憶もあるが、遂にオナニーしない日が来たのだ。いや遂にというよりは、やはりこれも、ただそういう日が来たに過ぎない。

何故そういう日が来たのかと言えば、これも以前に述べたことだが、単純に「オナニーの優先度が下がった」だけだと言わざるを得ない。限りある日常の中の余暇、それを配分を決める際にオナニーではなく、別の何かに振られる比重が高まっただけだ。もっとも、自分はどちらかと言えば行き当たりばったりな人間で、自分自身でもそう有りたいと願っているフシがあるように思える。具体的に言えば「今日は仕事から帰ったらコレをしよう」と決めていても、いざ家に着いたら全く別のことをやっている、そういう事態が日常茶飯事という具合だ。オナニーをするにしても「今日はこのキャラのエッチイラストでヌく」と決めて始めても結局は全く別のAVで射精を迎えていたりする。そしてそれで満足することもあれば、射精後に「何でこんなモンでイってしまったんだ……」と後悔することもある。

ただ、平時に考えてみると、オナニーに限らず行き当たりばったりの生き方というのは実に幸福な生き方だと思う。行き当たりばったりとは、つまるところその時々で自分が一番したいこと、自分の欲望にもっとも即した選択を取れるということだ。勿論、目の前の選択肢の全てが“微妙”で「強いていうなら……」という感情で選ぶ時もあるだろう。しかし、その中でも自分がその時一番好む選択をしていける、それで生きていけるというのは間違いなく幸福だ。予定を立ててそれを忠実に実行していく生き方がある。しかし、立てた予定が嫌になることも多々ある。これは自分の経験上から言っている。しかし、行き当たりばったりに生きていれば嫌になったタイミングで止められる。予定に縛られることなく自分を楽な方へと導くことができる。

 

……勿論、現実には社会とかそういうのがあるからそんなに上手くはいかないが。

 

オナニーの話に戻る。オナニーは社会から切り離された行動……とは言い切れない。以前にも書いたが、オナニーのオカズとなるエロコンテンツが生み出されること、それが現れる市場、流通して自分の元にやってくるシステム、それらは皆社会だ。ただ、一度オナニーが始まればそれは社会(というか他者)から切り離されると思う。オナニーの始まりから射精後の数瞬までの間だけ自分はこの世界から完全に独立できる。

違う。“完全”というのは言い過ぎだ。スマホでオカズを探そうとすれば、バナー広告というまるで社会その物のような画が視界に入り込んでくる。出勤前オナニーで言えば、時間までにイけるかどうかという点はまさに社会に支配されている象徴のようなものだ。「オナニーは社会から切り離された、完全に自分だけの世界」そう思いたいだけなのかもしれない。しかし、後から思い返せばどんどんと粗が溢れ落ちてくる。

「行き当たりばったり」を意識すればするほどそれは計画的になっていく。行き当たりばったりに生きようとするのではなくて、ただ普通に、いつも通りに生きること。オナニーすること。それでいい。だから、エロコンテンツへの出費額が以前より増えても何も恐れることはない。それに反比例するようにオナニーの回数が減っていくことにも恐れることはない。むしろ、オナニーが好きだからと言ってオナニーに縛られる方が良くない。オナニーの回数の増減すらも自分が自分の思う通りに生きている証拠だからだ。

 

話がとっちらかった。やはり、日記的な文章はもっと早く書かなくてはならない。時間をかけて書いていると、書いている内に彼是と雑念が混じっていってしまう。あるいはそれも“行き当たりばったり”と喜ぶべきか。

早くも1月が終わろうとしている。身の回りも自分も完全に平時に戻った。オナニーのサイクルも徐々に通常運転に戻ってきた。今日も出勤前にオナニーをした。今はむしろ、出勤前にオナニー(射精)をする方が社会に縛られているのではないかと思っていたりもする。オナニーはしたい時にするに限る。そして、オナニーしていない時もまた自分の欲求に従って生きているのだと知る。

そろそろ、嫌になってきたので今回はここまで。