イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

出来ることなら、「良い」オナニーがしたい話。

 最近、オナニーが雑になってきている。という自覚があったので、「質の高いオナニー」しようと思い立ちました。なので、「質の高いオナニーとは」「それを実現するには」とか色々考えてみようと思ったのですが、週末になった途端、割りとどうでもよくなってしまいました。同じ文章を書くのに時間を掛けてはいけない。とつくづく思います。本文内の自分は気付けてないようですが、恐らくオナニーに掛ける時間を多く取ればオナニーの自己満足度は上がるよっていうだけの単純な話だと思います。

 

 最近というか、一週間ほど前からどうにもオナニーの質が悪いように感じる。いや、実際悪い。まさに「射精できればいい」かのようなオナニーになっている。これはいけない傾向だと思う。

 オナニーの目的はイくことなのだから、とりあえず射精に至れれば「成功」と言ってもよい気がする。しかし、違う。そうではない。そうではないんだ。ただ、イけたらいいかというとそうではないんだ。もっとこう、情緒とか、射精に至るまでの悶々とした心との対話とか、射精が近いことが手に取るように分かる感覚とか、果てた後の心地の良い虚脱感とか……そういう要素が私は欲しい。上手く言葉を選べているか分からないが、「心に余裕を持ったオナニーがしたい」。

 

 今一つ満足感の得られないオナニーライフが続いていたせいで、つい熱っぽくなってしまった。色々とオナニーに対しての要望を出したが、あまり拘りたくはないという気持ちもある。前にも書いた(かどうか記憶が怪しい)が、自分はオナニーを特別視したくはない。「拘ってはいけない」というと「拘らないというこだわり」が生まれてきてしまう。それはそれで永遠に悩める魅力的な問題ではある。だが、今手を付けると一向に日々のオナニーの向上が進まないので、またの機会とする。

 オナニーは飯を食べたり、風呂に入ったりすることと同じである。あくまで日常行動の一つと考えるべきだ、と自分は思う。だから、性欲の高まりの赴くままに素直に陰茎をシゴいて気持ちよくなればいいのだ。ただ、その日常の一コマの中に幸せや充足感があってほしい。日常の一つであるからこそ、オナニーから幸福を感じることを始めたいのだ。

 理想は、意識をせずに質の高いオナニーを日々行うことだ。しかし、やはり、これは難しい。特に「意識をせずに」という部分が難しい。当たり前だ。意識をするからこそ、「オナニーの質」という概念に出会うのだから。意識をしたか否かは意識をせねば判別できない。こんなことを思っていてはまた、ますますオナニーの向上から遠退いてしまう。

 では、どうするべきか。自分はこう考える。手始めに意識をして日々質の高いオナニーを実践する。それを繰り返すことによって、質の高いオナニーを日常、普段のものとする。さすればごく普通のいつも行っているオナニーが必然的に質の高いオナニーとなり、ここに「意識せずに質の高いオナニー」ができる状態が現れる。

 という算段を組んでみる。計画の流れとしては悪くはないと思う。となれば、次に現実性があるかないかが問題となってくる。「まぁ、ムリではないかなぁ……」という自己評価を下してみる。実際、色んな意味でイけそうな気がする。しばらく、続けてみて問題がないかチェック、あればそこを修正、という具合でどうだろうか。

 PDCAサイクルみたいになってきた。吐き気を催す。アレは「ちょっと生きるのが上手い人間が生きるのが下手な人間を滅多くそに殴っている」ような気がしてどうも好きになれない。自分はいつもDo出来ずにPlanばかり思い付いては消している。いや、まぁ、D出来るPを立てればいいだけと言えばそうなのだが。しかし、人間あまりにも出来ないと「計画を立てること」そのものを無意味と判断し出すから。これはマジで。

 という訳で、今回はかなり実行が容易そうな計画を立ててみた。まぁ、計画というには余りにもアバウトではあるが。予定は未定とかいう言葉もあるし、それくらいで丁度いいのだ。それに日々のオナニーはDo出来ている*1のだ。それを少し発展させるだけなのだから、夏休みの宿題だとか、卒業論文だとか、職場環境の改善だとかよりは実現の可能性は高い。

 という訳で、まずは一週間ほどオナニーをする際は意識をしてなるべく質の高いオナニーをするようにしてみようと思う。一週間ほど続けて「実行出来たか」「何か変化はあったか」などを振り返ってみる。しかし、オナニーというのは高まった性欲の捌け口であるので、する時に「計画」という極めて理性的な要素を念頭に置いておけるかはかなり怪しいと、やる前から思っている自分もいる。どうなるだろうか。

*1:ここでは“射精出来ればオナニーが出来た”とみなす