イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

好かれてなくとも嫌われてはいないと思っていたら、普通に嫌われていたでござるの巻

オナニーから少し離れて、友人との人間関係に悩む話になっています。最後は考え続けるのが嫌になったので、打ち切りENDです。自分のオナニーの話がコンテンツてして面白いとは微塵も思っていませんが、今回の文章はそれよりも遥かに面白くないです。

 

 

このブログのテーマは「オナニー」だと思ってはいるのだが、オナニーについて考えているとあれこれ別のことも思い付く。で、そんなオナニーとは別のことも書き留めておきたくはあって、結局は自分の頭の中のごちゃごちゃした様をそのまま書き殴っているブログになっている。だから、考えている内に考えが微妙にブレていったり、初めと終わりとで主張が変わっていたりする。そういう部分も整えずにそのまま文字にしている。推敲とかしていると途端にしんどくなって続けられなくなるからだ。勿論、この考え自体が既に「続けなくてはならない」というしんどさになっているというのはさて置いておく。

 

という訳で、多分オナニーには触れない話をする。人間関係の話だ。前にも若干書いたが、高校以来の友人との関係についての話だ。この友人たちというのは今やもう自分にとってほぼ唯一の「友人」と呼べるグループだ。他の領域にも多少とはいえ自分が“友達”と呼んでも許してくれる人はいる。いるにはいるが、関わりをもって以来、今日まで継続して交流があり、その頻度も日常というレベルで行われているのはこのグループの友人たちだけだ。

この自分を入れて十人にも満たないグループ内の人間関係について自分は悩んでいる。この感情を一言で表していいのかは分からないが、それでも一言で言い表すなら、自分はグループの中心から「疎外感」を感じている。一言で言い表してはみたが、この言葉も適切ではない。ただ、何となくグループとの距離をが広がっているように感じるという点で「疎外感」という言葉を選んだ。

友人との距離が離れること。これ自体はおかしいことではないと思う。特に古い友人というのは年を重ねると共にお互いの生活の場が変化していき、それに伴って離ればなれになっていく。そういうことは誰と誰の間にも普遍的に起こる自体だと思う。一応断っておくが、ここでいう離ればなれは、子供時代における引っ越しによるものとかではなく、ただ単に人生が進んでいく過程で自然と(例えば進学、例えば就職などによって)起こる別れだ。だから、“別れ”というよりは単なる距離の増加のような関係性の変化だ。いや、関係性は恐らく何も変わらない。ただ単に物理的な距離が広がっただけだ。

今、自分が直面しているのは“そういう”離れ方ではない。確かに“それ”も初めは物理的な距離の広がりだったのかもしれない。しかし、今はむしろ物理的な距離は案外“近くて”、精神的な距離が遠く離れているか、或いはその間に埋め難い断裂が走っている。歌詞っぽく表現するなら、「心と心が離れた」状態だ。友人との関係がそんな状態になってしまったのは何時からだろうか。厳密には「友人と合わなくなったことを自覚した」のは何時からだろうか。恐らく何度も予兆はあったのだと思う。その全てを見逃し続けた結果、関係は修復出来ないところにまで来てしまった。いや「修復出来ないところにまで来てしまった」という認識も案外自分だけがそう思っている状態なのかもしれない。友人たちにしてみれば自分は“自分*1の”振る舞い次第で「まだまだやり直せる位置」にいるのかもしれない。

彼らは恐らく自分との距離の広がりを余り深刻には受け止めてはいない。そして、自分だけが離れて「しまった」と実感していることが余計にまた辛い。これは、邪推に片足を突っ込んでいるかもしれない推測だが、恐らく彼らにとって、彼らと自分との心の距離が離れてしまっていても、或いはその間に深い溝があってもいいのではないか。本当にこんな推測(もはや想像か)をする自分の狭量さが嫌になる。しかし、彼らからしてみれば自分が離れていくことに何のデメリットもないだろう。むしろ離れられることがメリットなのではないか。というのが出来る限り客観に徹した自分の見方だ。

そうだ。客観的に見て、こんな情緒不安定で、協調性の欠片もない、何一つとして優れた能力のない人間と付き合うメリットは皆無だ。そうだ。自分から見てみても自分と懇意にするメリットは何もない。そこには自分自身が如何に利己的にあろうとしようが、利他的にあろうとしようが関係ない。そもそもの事実として自分は他人に利益を与えられるような人間ではないのだ。むしろ、彼らはよく今まで無条件に友人でいてくれたなと自分は感謝をしなくてはならない。

「感謝の心」、学生の頃はよく標榜されていたスローガン的な概念だ。そうか。それを「分かってるよ」と軽視してきたが、何も分かっていなかったと言う訳か。妙な納得感がある。自分は友人に対する「感謝の心」が足りていなかったのだ。「何で俺だけが特別意識して謙虚に振る舞わねばならないのか」と不公平感を沸々と煮えたぎらせていたが、今この瞬間にすっと理解ができた。自分は生きているだけで人に不快感やデメリットを与えている人間だったのだ。周りの人は心優しいから気を遣ってそれを我慢して、かつ自分に悟らせないでいてくれたのだ。だから、せめて自分に出来ること、しなくてはいけないこととして、謙虚に、控えめに、少々の理不尽には耐えて、振る舞わなければならないのだ。そのことがようやく分かった。言葉で殴られたように感じても、その何倍もの回数自分は人を不快にしてきたのだ。自覚のないままに。そうか……

自覚なく人を不快にしてきたことに今やっと気付けた。しかし、やはり思い当たらないので、個別にいつ誰をどのように不快にさせたのかは分からない。しかし、間違いなく不快にはさせている。それは自分との関わりが多い、長い人、親しい間柄の人ほどそうさせている。これは悲しい。自分に近い人ほど自分に迷惑している。「どうしよう」という情念がぞわぞわと自分の背中を撫でていく。

人に好かれようとはしなかった。好かれたいと思ったことはある。好かれる努力をせずに好かれたいと思う図々しさは今さら自己批判するようなことではない。そういう“ズルさ”は自分の送ってきた人生の至るところに石ころのように転がっているからだ。ただ「嫌われるようなこともしてこなかった」と自認していたのは間違いだった。勿論、自分がこれまでの人生の中で人間関係上のミスを全く起こさなかったかと言えばそんなことは決してない。しかし、自覚できた、あるいは年長者に指摘されたミスについてはその都度悩み、改善をしてきた……要するに“普通に”他者と関われるようになる成長をしてきた。そういうごく普通(だと自分は思っている)の成長を経て、自分は“少なくとも”嫌われない人間になれた。そう思っていた。だが、現実は違った。その事にこの歳になってようやく気が付いた。

現実というのは理想とはかけ離れていた。理想は「好かれる人間」、しかしそれは“理想”だという認識があったから、“現実”的な落とし所として「嫌われない人間」という設定をした。“つもり”だった。本当の現実は「嫌われる人間」だった。かつて落とし所に設定していた「嫌われない人間」はとんでもない高望みだったという訳だ。ただ、それに今この段階になって気付いた。

目が覚めて、深い絶望を目の当たりにした。本当のことを言えば落とし所を設定したというのは嘘だ。そんなことを機械のように設定したことはない。つまり、落とし所を定めて「そうなろう」とした訳ではなく、「自分はそうだろう」と認識したに過ぎない。認識、これもその瞬間があった訳ではなく、ごく自然の内にそう認識していた。好かれる努力をしなくても、普通にしていれば嫌われない人間にはなれているだろうと思っていた。自分は自分を見誤っていた。自分は“普通に”しているだけで他者を不快にする(=他者に嫌われる)人間だった。だから、恐らく自分が「好かれる努力」だと思っていたのは「嫌われない努力」だったのだ。スタート地点が一般的な他者とは違っていたのだ。自分はマイナスに立っていた。

“普通”これもまた自分が誤認していたものの一つだ。自分がこれまで“普通”だと思っていた認識、感覚は一般的他者にとってはそうではない。その差がどれくらいあるのか、あるいはどのような位置関係で離れているのかは分からない。自分の認識のズレという観点を語り続けるにはもっと専門的な知識が必要だと思うのだ。だから、自分の普通が世間一般の普通からどれだけ乖離しているのかは今は考えないでおこうと思う。「乖離している」という事実だけを認識していれば一先ずはいいだろうと思うことにする。

 

自分の“普通”への悩みからは離れて友人関係の話に戻りたい。いや、戻るも何もうだうだと考え書いてきたお陰で答えは出た。自分が「疎外感」を感じていてもそれは仕方がないという訳だ。要するに「疎外されるような振る舞い」を続けてきた結果として今の状態があるのだ。自業自得、因果応報、何とでもいい表すことができる。色々考えた結果分かったと書いたが、薄々とは感じていた。いや、はっきりと分かっていても認めたくなかっただけなのだと思う。ただ、分かっていたのは「疎外感」を感じる理由が自分の方にあるということだけだ。不快にさせたこと、自分が普通だと思っていた振る舞いが普通ではなかったことはうだうだと考えて文章にしたから見つかった発見だ。だから、この作文には一定の意味があったのだと思う。意味があったと思わないとやってられない。

自分が悪いことを認めて、謙虚に振る舞うこと。ただ、自分が「どう悪いのか」は結局分からず仕舞いだ。そして、自分は「謙虚とは自己主張をしないこと」だと思っている。多分、思い込んでいる。だから、謙虚に振る舞おうとすれば無口になるしかなくなる。自分の思うように振る舞う(これは高確率で周りの人間を不快にさせる)か、一切喋らないでいるか。両極端でしか物事を見れないタイプなので、どちらか一方になる。ちょうどいい塩梅とかは自分にはない。現に特に親しくない人の前(例えば仕事中とか)では殆ど無口でいる。そして、それが特に苦痛にはなっていない。むしろ、どちらかというと喋りたくないとすら思う。ただ、友人の前で無口でいるのは辛い。「他人に迷惑かけなければそれでいいじゃない*2」とかいうが、全くそれでよくない。いや、多分客観的に見たらそれでいいのかもしれない。だが、自分自身は辛くて何も良くないのだ。喋って離れられるか、黙って近くに居させてもらうか。両極端にしかいられない自分だが、どちらか一方しかというのも無理だ。

人間関係とは「自分を抑えられる」かということなのかと思う。「自分」を抑えて、それっぽい普通(ずっと黙っていることが普通かは分からないが)を身に纏うことが人間関係を円滑にする手段なのかと思う。しかし、それを実行できたしとて(無理だからこういう現状があるのだが)、ずっと黙っている人格に意味はあるのだろうか。いや、一切言葉を発さなくても手はしっかりと動かしているのならその人には労働力てしての意味がある。「仕事」という世界ではそれでもいいのかもしれない。しかし「友人関係」という世界においてはその一切喋らない人格は果たして「自分である必要があるのだろうか」

 

いつの間にか「喋る・黙る」に限定された話になってしまった。これを「自分の思うように振る舞う・他者が望む振る舞いをする」という広い範囲に拡げてみる。よくよく考え直してみると、黙ることが他者が望む振る舞いかは分からないところである。結局はその場その場の空気というかルールに依るのだろう。つまり、黙っている必要がある場面で喋ったから(それも自分一人が盛り上がった状態で)、友人を不快にさせたのだろう。ここにもう一つだけ後出しの情報を付け加えることを許してほしい。自分と件の友人たちとの普段の関わりはSkypeによる通話だ。なおさら、振る舞いの大半が喋ることになるという訳だ。そういう世界(土俵)で如何にして自分の思う振る舞いをしつつ、他者に不快感を与えないように立ち回るか。人間関係というゲームはそれが真髄なのだと思う。

ゲーム……?人間関係とはゲームなのだろうか。ゲームというならばそこには勝ち負けが存在することになる。確かに上述のような駆け引きもある。では、ゲームに負け続けた人間はどうなってしまうのか。

本来なら人間関係はそんな殺伐としたものである必要はないはずだ。駆け引きが苦手な人にも手が差し伸べられるのが人間と人間が関係を持つことの醍醐味なのではないか。確かに、ここで「手を差し伸べられるような立ち回りができるかどうかだろ。」という意見が出てくる可能性もある。それは分かる。分かるのだが…………

 

もう、書き始めてから時間が経ち過ぎた。ここで打ち切る。この文章を踏まえてまた似たようなことを考えるかもしれない。その時の為にこの文章は残しておく。

*1:筆者を指す

*2:Иatural Pop』 ORANGE RANGE