イッツ・マイ・オナニー

思ったことをそのまま書き出してします。色んな意味でオナニーです。

好かれてなくとも嫌われてはいないと思っていたら、普通に嫌われていたでござるの巻

オナニーから少し離れて、友人との人間関係に悩む話になっています。最後は考え続けるのが嫌になったので、打ち切りENDです。自分のオナニーの話がコンテンツてして面白いとは微塵も思っていませんが、今回の文章はそれよりも遥かに面白くないです。

 

 

このブログのテーマは「オナニー」だと思ってはいるのだが、オナニーについて考えているとあれこれ別のことも思い付く。で、そんなオナニーとは別のことも書き留めておきたくはあって、結局は自分の頭の中のごちゃごちゃした様をそのまま書き殴っているブログになっている。だから、考えている内に考えが微妙にブレていったり、初めと終わりとで主張が変わっていたりする。そういう部分も整えずにそのまま文字にしている。推敲とかしていると途端にしんどくなって続けられなくなるからだ。勿論、この考え自体が既に「続けなくてはならない」というしんどさになっているというのはさて置いておく。

 

という訳で、多分オナニーには触れない話をする。人間関係の話だ。前にも若干書いたが、高校以来の友人との関係についての話だ。この友人たちというのは今やもう自分にとってほぼ唯一の「友人」と呼べるグループだ。他の領域にも多少とはいえ自分が“友達”と呼んでも許してくれる人はいる。いるにはいるが、関わりをもって以来、今日まで継続して交流があり、その頻度も日常というレベルで行われているのはこのグループの友人たちだけだ。

この自分を入れて十人にも満たないグループ内の人間関係について自分は悩んでいる。この感情を一言で表していいのかは分からないが、それでも一言で言い表すなら、自分はグループの中心から「疎外感」を感じている。一言で言い表してはみたが、この言葉も適切ではない。ただ、何となくグループとの距離をが広がっているように感じるという点で「疎外感」という言葉を選んだ。

友人との距離が離れること。これ自体はおかしいことではないと思う。特に古い友人というのは年を重ねると共にお互いの生活の場が変化していき、それに伴って離ればなれになっていく。そういうことは誰と誰の間にも普遍的に起こる自体だと思う。一応断っておくが、ここでいう離ればなれは、子供時代における引っ越しによるものとかではなく、ただ単に人生が進んでいく過程で自然と(例えば進学、例えば就職などによって)起こる別れだ。だから、“別れ”というよりは単なる距離の増加のような関係性の変化だ。いや、関係性は恐らく何も変わらない。ただ単に物理的な距離が広がっただけだ。

今、自分が直面しているのは“そういう”離れ方ではない。確かに“それ”も初めは物理的な距離の広がりだったのかもしれない。しかし、今はむしろ物理的な距離は案外“近くて”、精神的な距離が遠く離れているか、或いはその間に埋め難い断裂が走っている。歌詞っぽく表現するなら、「心と心が離れた」状態だ。友人との関係がそんな状態になってしまったのは何時からだろうか。厳密には「友人と合わなくなったことを自覚した」のは何時からだろうか。恐らく何度も予兆はあったのだと思う。その全てを見逃し続けた結果、関係は修復出来ないところにまで来てしまった。いや「修復出来ないところにまで来てしまった」という認識も案外自分だけがそう思っている状態なのかもしれない。友人たちにしてみれば自分は“自分*1の”振る舞い次第で「まだまだやり直せる位置」にいるのかもしれない。

彼らは恐らく自分との距離の広がりを余り深刻には受け止めてはいない。そして、自分だけが離れて「しまった」と実感していることが余計にまた辛い。これは、邪推に片足を突っ込んでいるかもしれない推測だが、恐らく彼らにとって、彼らと自分との心の距離が離れてしまっていても、或いはその間に深い溝があってもいいのではないか。本当にこんな推測(もはや想像か)をする自分の狭量さが嫌になる。しかし、彼らからしてみれば自分が離れていくことに何のデメリットもないだろう。むしろ離れられることがメリットなのではないか。というのが出来る限り客観に徹した自分の見方だ。

そうだ。客観的に見て、こんな情緒不安定で、協調性の欠片もない、何一つとして優れた能力のない人間と付き合うメリットは皆無だ。そうだ。自分から見てみても自分と懇意にするメリットは何もない。そこには自分自身が如何に利己的にあろうとしようが、利他的にあろうとしようが関係ない。そもそもの事実として自分は他人に利益を与えられるような人間ではないのだ。むしろ、彼らはよく今まで無条件に友人でいてくれたなと自分は感謝をしなくてはならない。

「感謝の心」、学生の頃はよく標榜されていたスローガン的な概念だ。そうか。それを「分かってるよ」と軽視してきたが、何も分かっていなかったと言う訳か。妙な納得感がある。自分は友人に対する「感謝の心」が足りていなかったのだ。「何で俺だけが特別意識して謙虚に振る舞わねばならないのか」と不公平感を沸々と煮えたぎらせていたが、今この瞬間にすっと理解ができた。自分は生きているだけで人に不快感やデメリットを与えている人間だったのだ。周りの人は心優しいから気を遣ってそれを我慢して、かつ自分に悟らせないでいてくれたのだ。だから、せめて自分に出来ること、しなくてはいけないこととして、謙虚に、控えめに、少々の理不尽には耐えて、振る舞わなければならないのだ。そのことがようやく分かった。言葉で殴られたように感じても、その何倍もの回数自分は人を不快にしてきたのだ。自覚のないままに。そうか……

自覚なく人を不快にしてきたことに今やっと気付けた。しかし、やはり思い当たらないので、個別にいつ誰をどのように不快にさせたのかは分からない。しかし、間違いなく不快にはさせている。それは自分との関わりが多い、長い人、親しい間柄の人ほどそうさせている。これは悲しい。自分に近い人ほど自分に迷惑している。「どうしよう」という情念がぞわぞわと自分の背中を撫でていく。

人に好かれようとはしなかった。好かれたいと思ったことはある。好かれる努力をせずに好かれたいと思う図々しさは今さら自己批判するようなことではない。そういう“ズルさ”は自分の送ってきた人生の至るところに石ころのように転がっているからだ。ただ「嫌われるようなこともしてこなかった」と自認していたのは間違いだった。勿論、自分がこれまでの人生の中で人間関係上のミスを全く起こさなかったかと言えばそんなことは決してない。しかし、自覚できた、あるいは年長者に指摘されたミスについてはその都度悩み、改善をしてきた……要するに“普通に”他者と関われるようになる成長をしてきた。そういうごく普通(だと自分は思っている)の成長を経て、自分は“少なくとも”嫌われない人間になれた。そう思っていた。だが、現実は違った。その事にこの歳になってようやく気が付いた。

現実というのは理想とはかけ離れていた。理想は「好かれる人間」、しかしそれは“理想”だという認識があったから、“現実”的な落とし所として「嫌われない人間」という設定をした。“つもり”だった。本当の現実は「嫌われる人間」だった。かつて落とし所に設定していた「嫌われない人間」はとんでもない高望みだったという訳だ。ただ、それに今この段階になって気付いた。

目が覚めて、深い絶望を目の当たりにした。本当のことを言えば落とし所を設定したというのは嘘だ。そんなことを機械のように設定したことはない。つまり、落とし所を定めて「そうなろう」とした訳ではなく、「自分はそうだろう」と認識したに過ぎない。認識、これもその瞬間があった訳ではなく、ごく自然の内にそう認識していた。好かれる努力をしなくても、普通にしていれば嫌われない人間にはなれているだろうと思っていた。自分は自分を見誤っていた。自分は“普通に”しているだけで他者を不快にする(=他者に嫌われる)人間だった。だから、恐らく自分が「好かれる努力」だと思っていたのは「嫌われない努力」だったのだ。スタート地点が一般的な他者とは違っていたのだ。自分はマイナスに立っていた。

“普通”これもまた自分が誤認していたものの一つだ。自分がこれまで“普通”だと思っていた認識、感覚は一般的他者にとってはそうではない。その差がどれくらいあるのか、あるいはどのような位置関係で離れているのかは分からない。自分の認識のズレという観点を語り続けるにはもっと専門的な知識が必要だと思うのだ。だから、自分の普通が世間一般の普通からどれだけ乖離しているのかは今は考えないでおこうと思う。「乖離している」という事実だけを認識していれば一先ずはいいだろうと思うことにする。

 

自分の“普通”への悩みからは離れて友人関係の話に戻りたい。いや、戻るも何もうだうだと考え書いてきたお陰で答えは出た。自分が「疎外感」を感じていてもそれは仕方がないという訳だ。要するに「疎外されるような振る舞い」を続けてきた結果として今の状態があるのだ。自業自得、因果応報、何とでもいい表すことができる。色々考えた結果分かったと書いたが、薄々とは感じていた。いや、はっきりと分かっていても認めたくなかっただけなのだと思う。ただ、分かっていたのは「疎外感」を感じる理由が自分の方にあるということだけだ。不快にさせたこと、自分が普通だと思っていた振る舞いが普通ではなかったことはうだうだと考えて文章にしたから見つかった発見だ。だから、この作文には一定の意味があったのだと思う。意味があったと思わないとやってられない。

自分が悪いことを認めて、謙虚に振る舞うこと。ただ、自分が「どう悪いのか」は結局分からず仕舞いだ。そして、自分は「謙虚とは自己主張をしないこと」だと思っている。多分、思い込んでいる。だから、謙虚に振る舞おうとすれば無口になるしかなくなる。自分の思うように振る舞う(これは高確率で周りの人間を不快にさせる)か、一切喋らないでいるか。両極端でしか物事を見れないタイプなので、どちらか一方になる。ちょうどいい塩梅とかは自分にはない。現に特に親しくない人の前(例えば仕事中とか)では殆ど無口でいる。そして、それが特に苦痛にはなっていない。むしろ、どちらかというと喋りたくないとすら思う。ただ、友人の前で無口でいるのは辛い。「他人に迷惑かけなければそれでいいじゃない*2」とかいうが、全くそれでよくない。いや、多分客観的に見たらそれでいいのかもしれない。だが、自分自身は辛くて何も良くないのだ。喋って離れられるか、黙って近くに居させてもらうか。両極端にしかいられない自分だが、どちらか一方しかというのも無理だ。

人間関係とは「自分を抑えられる」かということなのかと思う。「自分」を抑えて、それっぽい普通(ずっと黙っていることが普通かは分からないが)を身に纏うことが人間関係を円滑にする手段なのかと思う。しかし、それを実行できたしとて(無理だからこういう現状があるのだが)、ずっと黙っている人格に意味はあるのだろうか。いや、一切言葉を発さなくても手はしっかりと動かしているのならその人には労働力てしての意味がある。「仕事」という世界ではそれでもいいのかもしれない。しかし「友人関係」という世界においてはその一切喋らない人格は果たして「自分である必要があるのだろうか」

 

いつの間にか「喋る・黙る」に限定された話になってしまった。これを「自分の思うように振る舞う・他者が望む振る舞いをする」という広い範囲に拡げてみる。よくよく考え直してみると、黙ることが他者が望む振る舞いかは分からないところである。結局はその場その場の空気というかルールに依るのだろう。つまり、黙っている必要がある場面で喋ったから(それも自分一人が盛り上がった状態で)、友人を不快にさせたのだろう。ここにもう一つだけ後出しの情報を付け加えることを許してほしい。自分と件の友人たちとの普段の関わりはSkypeによる通話だ。なおさら、振る舞いの大半が喋ることになるという訳だ。そういう世界(土俵)で如何にして自分の思う振る舞いをしつつ、他者に不快感を与えないように立ち回るか。人間関係というゲームはそれが真髄なのだと思う。

ゲーム……?人間関係とはゲームなのだろうか。ゲームというならばそこには勝ち負けが存在することになる。確かに上述のような駆け引きもある。では、ゲームに負け続けた人間はどうなってしまうのか。

本来なら人間関係はそんな殺伐としたものである必要はないはずだ。駆け引きが苦手な人にも手が差し伸べられるのが人間と人間が関係を持つことの醍醐味なのではないか。確かに、ここで「手を差し伸べられるような立ち回りができるかどうかだろ。」という意見が出てくる可能性もある。それは分かる。分かるのだが…………

 

もう、書き始めてから時間が経ち過ぎた。ここで打ち切る。この文章を踏まえてまた似たようなことを考えるかもしれない。その時の為にこの文章は残しておく。

*1:筆者を指す

*2:Иatural Pop』 ORANGE RANGE

やりたくないことからは逃げ出したいという欲望

オナニーというよりは、自分の考えたことを中心に書きました。やはり、纏まりがなく、本文の初めと終わりとで言っていることが矛盾していたりするかもしれません。しかし、ぐちゃぐちゃになった頭の中をそのまま文章にしたという意味では正しい姿なのかなと思います。

 

「質の高いオナニー」については少し置いておこうと思う。いや、恐らく自分は「質の高いオナニーの話」から逃げ出したくて、別なテーマの文章を書き始めたのだと思う。これはブログ(というよりは文章を書くこと全般)についても言えることだが、自分は何かから逃避したい時により書けるようだ。だから、仕事から、労働から、現実から逃げ出したい平日にだけ筆が進むのだ。休日には逃げたくなることがない、訳ではない。だがしかし、休日には他の逃げ道がいくらでもある。それこそオナニーとか。むしろ「休日だから平日よりも沢山考えて、沢山文章を書かなくては」という思いから逃げたくなっている。逃げる。結果、休日には何も考えられず、文章も書けない。

という訳で、自分は目標だとか、高い意識をもってだとかでブログを書き綴ることはできない。「あくまで適当というか、何かから逃避した結果としてのブログでしかない」というスタンスを維持するしかない。これはオナニーにしたってそうなのかもしれない。「質の高いオナニーを」と思ってしまった瞬間、それは自分の中で義務のような存在となる。義務のようになってしまうと、これは何とも苦しい。オナニーはもっと解放されていて……ここで「解放されているべき」と書いていいのかもよくよく考えると迷われる。「オナニーはこうあるべき」と考える出すと、その瞬間にオナニーに謎の作法とか肩肘を張らなくてはならないような要素が混じってしまうように感じる。とはいえ、これはいくら考えても、むしろ考えれば考えるほど、どんどんと「オナニーはこうあるべき」「理想のオナニーとは」という苦しい問答に突入してしまう。そして、最終的には「どうすれば、良いオナニーができるか考えよう」「しかし、オナニーとはそもそも考えてすることではないのでは?」というような出口の無いループの地獄に嵌まっていってしまう。だから、もうやめた方がいいのだ。「良いオナニー」というテーマからは少し離れた方がいい。

 

いざ、テーマを手放すと途端に何を書けばいいのか分からなくなる。以前にも書いた「特筆すべきことがないのに、ブログを書き始めてしまった」という状態だ。何故そんなことをするのか。逃避だ。現実からの逃避だ。しかし、では何故現実からの逃亡先に文章を書くことを選んだのか。理由は単純だ。最も現実が側にいる職場において、逃げられる場所というのが文章しかないからだ。他に逃げられる先があるならそこに逃げている。現にTwitterとかをただぼんやりと眺めているという極めて無駄な人生の使い方をしていることもある。真に逃げ場がないとき。つまり、文章を書くことすら許されない業務中は何かを考えている。仕事とは全く関係ない何かを考えている。その考えた何かの成れの果てがこのブログの文章だったりする。とかく、自分の本質は逃避だ。嫌なこと、逃げたいことはその都度変わるが、何にせよそれから逃げたいが為に別の行動に勤しむのだ。だから、もしかしたら考えることが嫌になったら、黙々と手を動かして業務に逃避しているかもしれない。(もっとも、“どうでもいいことを考えること”はかなりの中毒性を秘めた行為なので、そうそう嫌になることもないだが)

自分の本質は逃避と書いた。つまり「やりたいことをする」ではなく「やりたくないことをしない」というのが自分の無意識での行動パターンなのかもしれない。これは変えようがないように思う。しかし、良いかと言われれば多分良くはない。少なくとも「何かになる」「何かを成し遂げる」という人生からは永遠にお声が掛からないだろう。「やりたいことをやろう」と思ってやり始めても、遅かれ早かれそれが「嫌になる」時が来る。別の何かに逃げたくなる時が来る。それを幼少期から繰り返し続けて、この歳になってやっと認知して、理解した。妙な納得感がある。同時に少し呪いのようなものが解けたようにも感じる。そういう清々しさがある。例えるならば、晴れた空の下で胸を張りたくなるようなそんな感情である。

 

恐らく、客観的な視点で自分を見たら、自分は何も変わってはいない。「自分の中身を文章にすることで清々しい気持ちになれた」という感覚を欲しただけなのだと思う。或いは文章を書くことで清々しい気持ちになることで、書いた文章を「清々しくなれる文章」という権威付けをしたかったという感情が働いたのかもしれない。はたまたもしくは文章を書くことに「心を晴れやかにする」という意味を付加しようとしているのかもしれない。独りよがりな思考だと思う。自分で自分に酔っているとも、自分で自分に催眠を掛けているとも、そのような状態だと思う。しかし、気持ちがよいのだ。恐らく、許される。どれだけでも、いつまででも自分で自分に酔うことがここでは許されているのだ。心地がいい。そうか。オナニーだ。今、自分はオナニーをしている。遂に職場という公の空間で、隣に同僚がいる状態で、自分は陰茎を取り出して扱いているに等しい快感を得ている。俺は今、職場で堂々とオナニーをしているぞ!!!

 

気持ちが昂りすぎたと思う。またもう少しだけ自分の人生の話をしたい。「やり始めることが常に別の何かやりたくないことからの逃避であり、それはどこかで必ず次のやりたくないことになる。」と書いた。それは良くないとも書いた。ならば、「やりたいことを始めればいい」というのが健全化の流れとしては正しいと思う。しかし、やりたいことであってもいつかはやりたくなくなることは目に見えている。目に見えている罠に自ら飛び込むのは少々気分が進まない。と言うか、そもそもこうして改めて考えてみると「やりたい」と思うこと自体がそもそも無いという事実に気付く。自分は何がしたいのだろうか。自分にしか答えが分からない問いを延々と自分の脳に投げ掛け続けている。客観的にも主観的にも無駄な脳の動きだと思う。しかし、止めようにも止められない。それほどに自分は何をしたいのか、何をしたらいいのか分からなくてしんどい。

先週の時点での思考は自分を行動させるのは「欲」だと判定していた。性欲に従ってはオナニーをし、何か文章を書きたくなっては文字を画面に打ち込む。事前の計画などは意味をなさない。その時、その時の欲望によってのみ自分の行動は決定され、実行されいく。と、先週の自分はそう思っていた。しかし、週末を経て、今日改めてぼんやりと考えていたところ、どうやらそうではないらしいことが分かった次第だ。自分を行動させるのは「欲望」ではなく「逃避」だった。「逃避」もある意味「今取り組んでいることから逃げ出したい欲望」と言えるかもしれないが。とにかく、やりたいことがやりたくないことになった瞬間に次の行動が決まる*1。そして、その次の行動たるやりたいことというのは案外何でもよかったのかもしれないと思う。今やってるやりたくないことから逃れられるなら、次にやることは何でもいい。改めて思い返して、自覚するのは初めてのことだが、心の奥ではそう考えていたのではないかと思い当たる場面は今までの人生で何度もある。やりたくないことから逃げる為のやりたいこと、それは偽りの欲求なのかもしれない。偽りだから、それはいずれ次のやりたくないことになるのかもしれない。逃避を繰り返して、積み重なったものがそのまま自分の人生だとすると、それは悲しい……ことなのだろうか。案外何も感じない。

逃避の果てに始めることが偽りのやりたいことだとして、では、自分の本当にやりたいことというのは何なのだろうか。そんなものはないのかもしれない。あるいは「何もしたくない」というのが、本来の欲求なのではないか。こんなことは「良いオナニー」について考えるよりも無意味で、不毛だ。もう、開き直るしかない。嫌なことからは逃げて、逃げて、逃げた先も嫌になったらまた逃げて、逃げ続けるのが自分の人生だと自覚して生きていくしかない。逃げ続ける人生だから、行き着く先がまともな場所とはならないだろう、恐らく何者にもなれていない自分がそこにいるだけだ。そして、そんな人生が、自分が悪くないとすら思っている自分もいる。そうなのだ。所詮、自分の人生なんてその程度なのだ。これからもその場その場の欲求に従って、行き当たりばったりに生きていく。その欲求が逃避からくる偽りの欲求かはたまた本当の欲求かは分からない。しかし、従うしかない。自分にはそれがお似合いだ。

 

その時々の欲求に従って生きようと、改めて決意をした。そろそろ、話をオナニーにより戻したくなってきたのでより戻す。オナニーというのは性欲に従った結果の行動だ。だから、オナニーしたい時にオナニーできればそれでよかったということに今気付く。自分は「質の高いオナニー」と題して、オナニーの内容にばかり気を取られていた。勿論、自分が気持ち良いと感じる「質の高いオナニー」を追い求めることも悪いことではない。それはそれで意味があることだと思う。しかし、それをやりたくない時にまでしようとするのは間違いだった。気持ちよくなる為のオナニーで思い悩んで気分を落ち込ませているというのは本末転倒だった。重要だったのは、オナニーしたい時にするという自分の欲求に素直に従うことだったのだ。そのオナニーの内容の良し悪しを考えることなんてあまり意味がなかった。考えるにしても、オナニーが終わってから良かったか、悪かった振り返る程度にしておけばよかったのだ。また気持ちが清々しくなった。今日は良い日だ。気付きが多い。

「意識的に質の高いオナニーをしてみる」という先々週に思い立った試みは今思えば馬鹿げていた。何故なら結局のところ、その場その場の欲求にPDCAなんて何の効力もなかったのだから。オナニーに計画は通用しない。あるのは常にやったオナニーを振り返る感想戦だけだ。そして、オナニーしたい時にできれば、それは一先ず良いオナニーと言っていい。だが、今になって思えば馬鹿げていたとしても、自分はこの試みに全く意味がなかったとは思わない。試みたからこそ、今の考えが頭に巡ってきたのだと思っている。それに出勤前オナニーの問題点についてはまだ考える余地がある。しかし、今はしたくないことなのでしない。今はもう少しこのまま清々しい気持ちでいたいので、オナニーの良し悪しについては考えない。

 

文章を書いて気持ちよくなることについて。話を文章を書くこと、ブログについてに戻してみたい。文章を書いてそれをブログとして曝し出した効果なのか、最近夜道でブロック塀をリスナーにブツブツやることが減った。リアルでブロック塀に話し掛けるよりは、インターネットに好き勝手吐き出す方が身の安全を確保するという点においては遥かに良い。しかし、自分にとってどうか、という点においては良い傾向かどうか判別が付かない。もしかしたら「夜道を歩きながらボソボソと独り言を呟いているようなヤツ」という状態の方が客観的には良いのかもしれない。「そんな訳ないだろ」と貴方は言い切れるだろうか。貴方は自分のことを恐らくご存じないハズだ。いわば、画面の向こう側にいる(と思われる)全くもって無関係の人間だ。貴方と自分との接点は、この自分が一方的に吐き出しているこの文章を貴方が閲覧している以外にない。だから、自分が夜道で独り言を呟くようなヤバい、危ない人間であっても、貴方にとっては一切何の害もないのだ。そう考えると、どうだろうか。画面の向こうでこの文章を書いているヤツというのは、ヤバい、危ない人間という方が貴方は愉快に感じるのではないだろうか。恐らく、インターネット上でしかすれ違わない全く赤の他人というのは普通の、ノーマルな人間よりは、奇特な、アブノーマルな人間の方が興味を惹かれるのではないだろうか。少なくとも自分はそうだ。そう考えると、自分は自分の状態を危ない方向へと傾けておいた方が少なくともブログを書いている上ではいいのではないか、ということになる。

はい。ここに欲がある。「ブログを良くしたい」という欲がある。そもそも、このブログというか文章は「言いたいけど知り合いには言えないだけど知らない誰かには聞いてほしい」というクソと言ってもよい自己顕示欲に端を発している。しかし、クソをクソと自認していることがある意味最後の防波堤だと思っている。これを「クソじゃないですよ!とても面白いエンターテイメンツですよ!!!」と言ってしまったらおしまいなのだ。百歩譲ってブログを良くしたいのなら(そういう努力をする覚悟は自分には微塵もないが)自分が奇特なことをするのではなく、普通のことを平凡な言葉で書いて奇特に見せる努力をするべきだ。具体的には推敲とか、読書とかをした方がいい。少なくとも、むりくり自分の行動をヤバい方向に持っていこうとするのはみっともないにも程があるから止めておいた方がいい。ブログを抜きにしても、自分を奇特なエンターテイメント或いはコンテンツにしようというのは間違っていると思う。特にそういう考えなく行動を続けた結果それがエンターテイメントになっているからこそ、そういうコンテンツには価値があるのだ。狙ってやるのは明らかにダサいというか、みっともないのだ。

 

 

僭越ながら、これは過去の自分のツイートだ。案外前から自分が“分かっていた”ことに少し驚いている。最近はこういうツイートをしなくなった。やっぱり、繋がっている友人(最近は愚かなことに実妹まで相互フォローになってしまった。)には見せられないと思う。既に見せてしまっているから、今更だとは思う。思うが、罪を重ねることもない。こういうツイートをすればするほど、自分と友人との中は険悪になっていくのだと思う。

他者にはとても見せられないような自分の考えていることを文章にしたのがこのブログだ。そんな見せられないようなブログだが、見られたいとも思っているというのは既に述べた。そして、その時*2の文章にはあわよくば言及されたいとも書いた。そして、本当にありがたいことに言及を頂いた。心から感謝を述べたい。ありがとうございます。

 

コメントを頂いたことで、嬉しくなってしまった。嬉しくなってしまったから、このブログはもはや人の目を意識するものとなった。いや、多少は読み返したりはしながら書いてはいるが、そういうことではなく、読まれているという意識を持たずにはいられなくなったという意味だ。読まれることが悪いことではない。インターネットに放流されている以上、読むのは全インターネットユーザーの勝手だ。本当に読まれたくないのなら非公開にするか、そもそも自分のデバイスの中だけに留め置いておけばいい。それを曝しているということは、つまり、読まれたいと心の中では思っているのだ。

「味をしめる」とでも言うべきか。一度いい思いをするともっと欲しくなる。冒頭の方で「適当というか、何かから逃避した結果としてのブログというスタンスを維持するしかない」と書いた。しかし、それがこの様だ。少し構われただけで、より構ってもらおうと考え始めている。つまり、目標を持つだとかよりよいブログ、文章にしようだとか考え始めている。「ブログを良くしたいのなら〜」とも書いたが、このブログにとってはそれすら間違っていると思う。このブログは逃避から始めたものだから、そういうことはしない方がいいと思っている。意識してブログを良くしようとあれこれ始めてしまうと、ほぼ確実にこのブログもいずれ「やりたくないこと」になってしまうからだ。その時が来たら終わりだ。そうはしたくない。自分はこのブログを手放したくはない。だから、捨てる。ブログを良くしてより多く構ってもらいたいと思う欲を捨てる。捨てられるか。

*1:常にそうではないと思う。という予防線は張っておく

*2:

出勤前オナニーは多分よくない。

 週末中には書き上げようと思いつつも、やっぱり書き上げられなかった「意識して質の高いオナニーをするようにする」実践の結果報告的なヤツです。書いている内に文も頭もぐちゃぐちゃになってきたので、最後の方は無理やりぶった切って終わっています。あまり日を掛けすぎてもよくないとも思うので、これはこれでいいと思うことにします。

 

 先週思い立って始めた「意識して質の高いオナニーをするようにする」試みの結果を書き残していきたい。とはいえ、約一週間というのは期間としてはいささか短すぎたかと思う。もう少し長い期間を設けて経過を見るべきだったと思う。前回の日記には「最終報告」とか書いたような気がするが、アレは嘘だった。

 さて、では肝心の結果だが「出来なかった」というのが正直なところだ。現れてしまった結果というのは、これはもう仕方がないので大人しく受け入れるより他ない。それよりも「何故そうなったのか(ならなかったのか)」とか「どうすればよかったのか」とかを考えることが恐らく重要なはずである。(こう書くと、まんまPDCAの輪廻に囚われているようでやや癪に感じるが、苛立ってばかりいる訳にはいかないので心のモヤを圧し殺す。)

何故そうなったのか

 第一に、これは自分の中で微少ながらも性欲の減退があったからだと思う。もっとも、減退と言ってもオナニー自体は毎日していた。オナニーの機会が少なくなった状態でも質の高いオナニーを目指すことは出来たハズなので、やはりこれは「出来なかった」ということになるだろう。

 僅かな性欲の減退以外の出来なかった理由には一体何があったか。それはオナニーしようと思ったタイミングが悪かったという点が挙げられる。(恐らく多くの人がそうであるように)自分は性欲が高まったタイミングでオナニーを開始する。つまりは、肉体と精神が欲するままにオナニーしたい時にオナニーするのだ。とはいえ、流石の自分にも最低限度の社会性というものが備わっているから、仕事中にいきなりチャックを下ろしてチンポを取り出して扱き始めるということはしない。あくまで「オナニーできる状況において」したい時にしている。そのような訳で開始のタイミングについては結構自由が利く。少なくとも平日の朝家を出て夜に帰宅するまでの間でオナニーを我慢出来なくなったことは今のところはない。しかし、オナニーはただ始めればよいというものではない。オナニーにも最中があり、射精という終わりがある。終わった後は服も着なくてはならない*1。欲を言えばオカズの選定はじっくりとやりたいし、イった後は暫く虚脱感に浸っていたい。

 これは完全に余談だが、イった後にオカズにしたページからエロスとは全く関係のないページに飛ぶこともよくある。つい先日は何故かイった後にティッシュも手に取らずに日大紛争 - Wikipediaを読んだりしていた。全く以て意味が分からない。多分、その時の自分に問い詰めてみても「何でそんなことしたのか分からない」と答えると思う。だが、そんな心地の良い虚脱感の中でエロスとは全く異なるページを閲覧するのもどこか好きな自分がいる。

 と、このようにオナニーには結構時間が掛かるというのが個人的な見解だ。しかし、「オナニーできる状況」というのは何時までも続くわけではない。先の日記でも書いたが「質の高いオナニー」には時間の余裕が必要だが、中々時間が取れないという問題が出てくる。これが「他にやりたいことがあってオナニー出来ない」という状態なら致し方がないと思う。納得も出来る。つまり、そのやりたいことがその時の欲望なのであって、それが性欲に一時的に勝ったというだけだからだ。だからこのケースはオナニー自体が“始まらなかった”のであり、質の高いオナニーが出来た出来なかった以前の話なのだ。問題はオナニーをしたくて始めたのに時間がなくなってしまった場合だ。性欲はやる気満々なのにタイムアウト、これは辛い。高まるだけ高まった性欲をどうにか抑えてオナニーを中断するか、とりあえず射精を目標に極めてインスタントな手捌きで茶を濁すか、どちらかになる。どちらになっても、質の高いオナニーとは到底言えない。どちらの選択肢を採っても後悔しか残らないだろう。

 もう、回りくどくなるのもよくないので有り体に申し上げよう。出勤前のオナニーが極めて低質でどうにかしたい。これが自分のオナニーの目下の悩みというか問題点だ。この問題さえどうにか解消できたなら、自分のオナニーの質は自然と向上すると思う。

出勤前オナニーという愚

 そもそも「出勤前オナニー」とは何か。これは朝仕事に行くために家を出る、その直前の時間にベッドに潜ってもぞもぞシコシコすることである。まるでそういう概念があるかのように書いたが、単に自分の性欲の高まりが朝目を覚ました後、出勤前に訪れる、そういうサイクルに生きているという話である。他人のオナニー事情は聞けないし、またわざわざ自分みたいに自供しているブログをインターネットで探すほど知りたい訳でもないから知り得ない。もしかしたら「出勤前オナニー」という概念は自分の中だけにある、自分独自のものかもしれない。はい。今、この瞬間そうであって欲しいと仄かに思ってしまった。浅はか。自分今最高に浅はか。

 別に出勤前オナニーの独自性とかはどうでもいい。問題なのはこの出勤前オナニーが自分の中で完全にクセになってるということだ。別に誰に聞かれた訳でもないのに自分の中のキルア・ゾルディックが「ああ……クセになってんだ出勤前にオナニーするの」って主張してる。申し訳ない。恥ずかしいから誰であっても見逃してほしい。「キモチよくなる為にオナニーしてるんだろ?それが出勤前でも別にいいじゃん。」と、貴方は思われるかもしれない。しかし、違う。出勤前オナニーの大部分を占めるのは、迫り来る家を出なくてはならない時間への焦りと、イけそうなのだがそれは今すぐではないという感覚だ。これは「質の高いオナニー」という至福でなくてはならない時とは程遠い、焦燥感ともどかしさに苛まれた臨戦状態に等しい。そんな限界バトルを毎朝独りで繰り広げている。これは、やはり世間一般と比べてみると可笑しいことなのだろうか。繰り返しになるが、自分以外のオナニーは分からない。分からないので、自分が囚われているこの毎日のサイクルが狂っているのか、正常なのか全く以て判別が付かない。ただ、この出勤前オナニーというサイクルが自分の考える「質の高いオナニー」にとっては“悪”というのは分かる。間違いない。先に定義した「質の高いオナニー」に向かおうという意思を持てば持つほど、この出勤前オナニーの輪廻は絶ち切らねばならないものだと思う。

「どうすれば断ち切れるのか」という話はさておいて、もう少し自分の出勤前オナニーの内容について書いていく。書いていくことで、如何にそれがよろしくないかを顕にしたい。まず、目覚める。目覚めると愚息は勃起していることが多い。所謂「朝勃ち」という現象だ。そして、勃起していないにしても何故か異様にムラムラする。理由は分からないが、これは朝勃ち以上に確実にそうなる。

 これは根拠のない憶測に過ぎないのだが、オナニーを習得して以来そのほぼ全ての回数をベッドに横たわった状態で行ってきた結果、寝床に寝転がっただけで性欲が沸き立つ体になってしまったではないかと思う。つまり、自分でも知らない内に床に臥せることと性欲とが繋がってしまっているということだ。

 そんなこんなで、目覚めてから寝床を抜け出すまでにほぼ確実に陰茎を弄るフェーズが発生する。これが休日だと、二度寝と相まって中々布団から出られなくなるのだが、平日の自分は案外社会性があるようで、現状結構すんなりと布団から抜け出すことができている。そして、朝食を食べるなどする。その後、家を出るまでの僅かな時間に寝床に戻って、する。というのが、自分の朝の全てだ。こんなことをしていて今のところ遅刻をしたことがないのだから不思議なものである。ただ、その引き換えとなっているのがオナニーの質という訳だ。悲しいことだと思う。

 出勤前オナニーはごく僅かな時間にプレッシャー、焦燥感、性欲と闘うべき相手が多い。「性欲には負けているから、そんな状況にも関わらずオナニーしているのだろう?」と言われるかもしれない。しかし、いくら性欲に負けてオナニーを始めたとしても、本当に出社に間に合うように射精出来るかは分からない。日によっては残された時間と射精に至るまでに掛かりそうな時間とを冷静に比べて泣く泣くその場でオナニーを中止しなくてはならない時もあるからだ。まぁ、実際の自分の脳の働きはそこまで冷静でも的確でもないのだが。何にせよ残り時間を気にしながらのオナニーなど、どう考えても質が高いとは言えない。オカズへの集中や妄想への没入が全く出来ていないからだ。むしろ、脳でオナニーの中止を判断できた時などは幸運であったというべきである。中止を以てして質の低いオナニーを回避出来たからだ。大抵の場合は何とか自身を射精まで至らせる。このようにして思い返してみると、やはり結局のところ自分は性欲には勝てない人間なのだと自覚させられる。

 そんなムリなオナニーを知らず知らずの内に繰り返してきた結果がまさかの「膣内射精障害」だ。期待と緊張を胸中でない交ぜにして向かった人生初の風俗*2で判明した悲しい事実だ。無理もない。短時間でイくにはやはり、物理的に強い刺激が必要なのだ。オナニーを覚えてから十数年経ったタイミングで「正しいオナニーのやり方」などと言われても、もはや遅い。今さら何の意味があるのかと問い詰めたくなる。加えて自分なりにそこそこ幸福だった今までのオナニーライフを全否定されたような気さえしてくる。今までのオナニーライフの否定、それは即ち今までの自分への否定ではないかと思う。だから、多分、恐らく自分はオナニーのやり方を変えはしないだろう。まぁ、本音のところを申すなら、今さらやり方を変えるのも面倒だから変えないと思う。

 膣内射精障害を負っているだとか、オナニーのやり方が良くないだとかは、どうでもいいと言えばどうでもいい。恐らく、この人生はこの先もプロフェッショナルの方に依頼をしない限り、膣内で射精する機会は巡ってこないからだ。だから、そんなことよりはオナニーで気持ちよくなることに意識を割いた方がいい。オナニーのやり方はともかくとして、出勤前オナニーというサイクルは改めねばならない。オナニーで気持ちよくなることに反しているからだ。

 

 いや、気持ちよくなっているから射精をしているのではないか。オナニーで気持ちよくなりたかったはずなのに、自分はいつの間にか「気持ちよくなれるオナニーそのものに価値を見出だしてしまっていたのではないか」しかし、それでも出勤前オナニーには満たされない部分があまりにも多すぎる。改めたい。

 

終わる

 少し頭が混乱してきたので、報告はここでぶつ切らせてもらおうと思う。結果としては、「意識をしても質の高いオナニーは出来なかった。『出勤前オナニー』というサイクルが良くなかった。」ということにしておこうと思う。ちなみに今朝*3も射精してから家を出ている。

*1:自分はオナニーを全裸ですることが多い

*2:その話はまた機会があればする。

*3:2019/11/11

結局はどれだけオナニーに人生を使えるか(でも、他のこともしたい)

 前回の日記で書いた「意識して質の高いオナニーをするようにする」試みについての中間報告的な感じを目指して書き始めたのですが、時間が掛かり過ぎました。最終報告は本文中と注釈にある日より後になると思います。まぁ、別にどうでもいいことですが。テーマは「質の高いオナニーには心身の安定が必要だと思ったんで、その辺をまとめてみた」……と標榜出来ればよかったんですけど、全然まとめられてないです。結論としては「質の高いオナニーをしても、なお余りある余暇が欲しい……」ですかね……?何だかんだ言っても、オナニー以外にしたいこともある訳ですらね。

 

 下らないことであっても、やはり通勤中や仕事中の方が思考はよく巡る。いや「労働」というストレスがないと、下らないことについてすら思考することが出来ない。休日というのは実に頭が動かないもので、目先の分かりやすい快感にのみ食い付き、これを貪ってしまう。むしろ、分かりやすい快感を貪れている時はまだマシで、どの快感を喰らおうか迷っている間に平日が訪れた時の絶望は思い出したくもない。平日に比べれば休日の価値は数百倍も高い、それは分かっているハズなのに、その高価な休日をまたも無駄にしてしまった。そして、そのことをまた平日に悔やむという輪廻。少しでも改善したいと思う。そんなわけで、やはり平日の空き時間に文をこねくり回す。

 

 やはり、自己のオナニーの話をするより他あるまい。件の「意識して質の高いオナニーをするようにする」実験についてだが、まだ道半ばといったところだ。最終的な結果は今週末*1にご報告できたらいいなぁと思っている。が、これすらもやはり未定な予定であることはご容赦願いたい。

 

 誰に容赦を請うているのか。このブログは個人的事象の掃き溜め。死んだ精液を包んだティッシュのようなもの。その程度の価値しかないが、代わりに誰にも遠慮はしなくてもよいハズだ。そう思って綴っている。

 

 道半ばではあるが「質の高いオナニー」について少しだけ分かり始めたことがあるので、自分のために記しておきたい。「分かり始めた」と書いたが、実は前回の日記を書き終わる頃には既に思い至っていた。あるいはもっと前から薄々と感じてはいたのかもしれない。それほどまでに普遍的で当たり前のことだが、一応言っておく。「質の高いオナニー」が出来るかどうか、それは「如何に肉体的、精神的に安定した状態でオナニーが出来るか」である。当たり前のことをまるで大発見をしたかのように書いている恥ずかしさを感じる。恥ずかしさを感じているので、厚顔無恥っぷりについては赦されたものとする。

 という訳で「肉体的、精神的に安定した状態でするオナニー」についての話をする。とはいえ、これはそのままの意味で、(くどくなるが繰り返す)オナニーする者であれば皆心得ている基本中の基本と言えることである。自分自身も、これについては恐らく肉体とか本能レベルでは理解をしていた。ただ、こうして自分の日々のオナニーを文章にして振り替えるという試みを始めたことによって初めて、頭での理解、感覚ではなく言葉での理解ができたように思う。せっかく、質の高いオナニーを言語化できる機会が巡ってきたのだから、もう少し具体的に書いて完全に自分の中に留めておきたいと思う。

 

 まず初めに「肉体的、精神的に安定した」状態を明らかにしておく必要がある。これは各人において違うので一概には言えないが、要するに「何の不安もなくオナニーに集中できる」状態のことであると思う。肉体面で言えば、例えば利き手を骨折している状態では満足に陰茎を扱けないだろう。或いはオナニーする元気もないほど身体が疲労しているなども肉体面の不安と言えるだろう。ともすれば、肉体面の安定を求めるならば、「良いオナニーは良い体調から」となるだろう。まずは体調を整えるというか、健康でなければならないという訳だ。労災防止の話みたいで労働を想起してしまい何ともイヤになるが、事実なので仕方がない。

 他方、精神面はどうか。精神面の安定とはこれつまるところ、オナニーを行うに際してストレスがない状態である。オナニーをしようと思っても、ふと次の日に待ち構える試験、発表、期限などが脳裏を過れば質の高いオナニーなど到底出来ないだろう。「次の日に大事があればオナニーなどしないだろう」という指摘もあるかもしれない。甘いと思う。大抵の大事というのは社会によって課される。しかし、オナニー、つまり性欲は社会の以前、生物としての根本的欲求に依って呼び起こされる。社会的欲求などお呼びではないのだ。オナニーに生きる者、ムラっとすればヌく。翌日の大事など、俗世のノイズに過ぎず、質の高いオナニーにとっては邪魔でしかない。というのは言い過ぎであろうか。しかし、個人的にはそれほどに社会というものに意味を感じない。自分の性欲の発散と社会とを天秤に掛けると、社会など割とどうでもよいもののように感じる。

 

(とはいえ、オナニーの供たるオカズを産み出してくれているのは社会であって、ここに消費者にしかなれない者の身勝手さが垣間見えて自分で自分に嫌気がさしもする。)

 

 話が逸れた。肉体面、精神面の安定についてまとめると、「体調を健全に保ちつつ、ストレスも受けていない状態」がこれと同義だと言える。

 さて、質の高いオナニーにとって必要な安定については明らかにできた。そして、個人的には肉体面よりも精神面の安定の方がオナニーにおいてはより重要だと感じる。その理由だが、まず肉体の不調が過ぎる時というのはそもそも物理的にオナニーが出来ない状況だ。逆に精神のみが不調な場合というのはどうか。これはオナニー出来るだろうと考える。少なくとも自分はオナニーする。余程痛烈な精神的ショックを受けてでもいない限り、人はいつものようにムラムラする。つまるところ、オナニーができない程の肉体面の不調はどうしようもないのである。だから、肉体がオナニーOKな場合に精神が応えられるよう、精神面の安定を重視する必要があると考えるのだ。

 加えて、肉体と精神を比べれば精神にダメージを負う機会の方が日常の中では遥かに多いと思う。精神面の安定についての段でも書いたが、現代社会というものは驚くほど無神経に個人に対してストレスを与えてくる。暑い、寒いなどの身体的ストレスだけでも大概なのに、それに追加して、やれ税金だ、効率だと死人に石を載せるがごとくストレスを浴びせてくる。それらに対処せねば質の高いオナニーが出来ないことを考えると、やはり肉体よりも精神の安定により力を注ぐ必要があると思う。

 精神の安定を脅かすものは何も社会的ストレスだけではない。例えばヌきたいのに時間がないだとか、良いオカズが見つからないだとかも精神にとってはよろしいとは言えない。いや、オカズが見つからないのはそこまでか。本日のパートナーを求めてインターネットをさ迷うのもそれはそれはオツなものだと思う。しかし、その風流を愉しむにもまた時間が必要になってくる。とにかくこの世はじっくりと質の高いオナニーを実践するには時間が足りなすぎる。時間を制限してくるのも社会なのかと考えると、やはり社会こそがオナニーの大敵ではないかと考えてしまう。違う。社会を目の敵にしても何も解決はしないのだ。質の高いオナニーに必要不可欠な良質なオカズが作られ、我々の元に届くのもまた社会……!社会を「悪」と定義し、これを徹底的に叩くのは間違っている。目的は「敵」に勝ってではなく、あくまで自分自身の在り方を変えることによって達成されねばならない。特に何処までも孤高なる個人戦であるオナニーに関してなら尚更である。

 

 少し、熱を帯びすぎたと自省する。しかし、おかげでオナニー=究極の個人的事象であることを再認識できた。再び質の高いオナニーの為の安定について考えていく。オナニー=個人とすると、社会的ストレスも所謂「気の持ちよう」によって対処していくことが求められそうだ。だが、これは難しい。いくら性欲が理性を吹き飛ばしても、所々の問題からは逃れられない。しかし、少なくとも、オナニーの最中だけ没頭できればいいのではないか。言うなれば、「イった後のことはイった後の俺が考える」*2という考え方だ。どうだろうか。根本的な解決にはなってはいないが、「質の高いオナニーをする」という目的は達成出来るのではないだろうか。

 社会からのストレス、圧力に対しては一旦捨て置くという方法を採るとして、次なる問題は「時間の余裕を如何に持つか」という点である。これは要するに「オナニーにどれだけ時間を掛けられるか」という問いである。つまるところは、やはり個人の問題ではないだろうか。他のことを捨て置き、どれだけオナニーに余暇を捧げられるかそういう問いを己の性欲に投げ掛けられているのだ。どうだろうか。他の全てを捨てて質の高いオナニーを実践できるだろうか。

 

 問い掛けるような文章になってしまった。このブログはあくまで自分の個人的なことについて書き残すと決めている。だから、「自分はどうか」を答える。そして、答えるなら答えは多分「ノー」だ。「他の全てを捨てて」というのはまず無い。これは自分の性欲についての日記でも書いたが、いくら自分の中で性欲が首位を走っていると言っても、他にやりたいことが無い訳ではない。繰り返しになるが、新しいゲームを買った直後なんかは流石にそっちに没頭する。だから、質の高いオナニーの為に他の、その時やりたいことを我慢するというのは自分としてはしたくない。

 少なくとも自分はオナニーのみを楽しみに生きている訳ではない。オナニーが一番楽しみだとしても、他の2位、3位あるいはそれ以下の事柄を捨て置くことはできない。質の高いオナニーに必要な安定の為には、他の全てを捨て置いてオナニーの為に時間を割かなくてはならないのか。それは必須なのか。

 オナニー以外のことを楽しみつつ、質の高いオナニーを要望してもいいと思う。そこは我儘を言っていいところだと思う。オナニーしたいのも欲望なれば、他のことをしたいのもまた欲望だからだ。その時、その時の欲望に素直に生きればいい。自分はそう思う。いくら事前にプランニングをしていようと性欲の高まりは突然やってくる。そうなれば、自分は自然とオナニーという行動を取るだろう。その時、余裕を持ったオナニーをするよう心掛ければいい。オナニーが始まってから質の高いオナニーを意識すればいい。つまり、オナニーは生き物でアドリブなのだと思う。

*1:2019/11/8〜9頃

*2:より厳密に、イった直後の余韻もオナニーの範疇だと考えるとイった後ではなく、“ティッシュを捨てた後”とでもするべきかもしれないが。

出来ることなら、「良い」オナニーがしたい話。

 最近、オナニーが雑になってきている。という自覚があったので、「質の高いオナニー」しようと思い立ちました。なので、「質の高いオナニーとは」「それを実現するには」とか色々考えてみようと思ったのですが、週末になった途端、割りとどうでもよくなってしまいました。同じ文章を書くのに時間を掛けてはいけない。とつくづく思います。本文内の自分は気付けてないようですが、恐らくオナニーに掛ける時間を多く取ればオナニーの自己満足度は上がるよっていうだけの単純な話だと思います。

 

 最近というか、一週間ほど前からどうにもオナニーの質が悪いように感じる。いや、実際悪い。まさに「射精できればいい」かのようなオナニーになっている。これはいけない傾向だと思う。

 オナニーの目的はイくことなのだから、とりあえず射精に至れれば「成功」と言ってもよい気がする。しかし、違う。そうではない。そうではないんだ。ただ、イけたらいいかというとそうではないんだ。もっとこう、情緒とか、射精に至るまでの悶々とした心との対話とか、射精が近いことが手に取るように分かる感覚とか、果てた後の心地の良い虚脱感とか……そういう要素が私は欲しい。上手く言葉を選べているか分からないが、「心に余裕を持ったオナニーがしたい」。

 

 今一つ満足感の得られないオナニーライフが続いていたせいで、つい熱っぽくなってしまった。色々とオナニーに対しての要望を出したが、あまり拘りたくはないという気持ちもある。前にも書いた(かどうか記憶が怪しい)が、自分はオナニーを特別視したくはない。「拘ってはいけない」というと「拘らないというこだわり」が生まれてきてしまう。それはそれで永遠に悩める魅力的な問題ではある。だが、今手を付けると一向に日々のオナニーの向上が進まないので、またの機会とする。

 オナニーは飯を食べたり、風呂に入ったりすることと同じである。あくまで日常行動の一つと考えるべきだ、と自分は思う。だから、性欲の高まりの赴くままに素直に陰茎をシゴいて気持ちよくなればいいのだ。ただ、その日常の一コマの中に幸せや充足感があってほしい。日常の一つであるからこそ、オナニーから幸福を感じることを始めたいのだ。

 理想は、意識をせずに質の高いオナニーを日々行うことだ。しかし、やはり、これは難しい。特に「意識をせずに」という部分が難しい。当たり前だ。意識をするからこそ、「オナニーの質」という概念に出会うのだから。意識をしたか否かは意識をせねば判別できない。こんなことを思っていてはまた、ますますオナニーの向上から遠退いてしまう。

 では、どうするべきか。自分はこう考える。手始めに意識をして日々質の高いオナニーを実践する。それを繰り返すことによって、質の高いオナニーを日常、普段のものとする。さすればごく普通のいつも行っているオナニーが必然的に質の高いオナニーとなり、ここに「意識せずに質の高いオナニー」ができる状態が現れる。

 という算段を組んでみる。計画の流れとしては悪くはないと思う。となれば、次に現実性があるかないかが問題となってくる。「まぁ、ムリではないかなぁ……」という自己評価を下してみる。実際、色んな意味でイけそうな気がする。しばらく、続けてみて問題がないかチェック、あればそこを修正、という具合でどうだろうか。

 PDCAサイクルみたいになってきた。吐き気を催す。アレは「ちょっと生きるのが上手い人間が生きるのが下手な人間を滅多くそに殴っている」ような気がしてどうも好きになれない。自分はいつもDo出来ずにPlanばかり思い付いては消している。いや、まぁ、D出来るPを立てればいいだけと言えばそうなのだが。しかし、人間あまりにも出来ないと「計画を立てること」そのものを無意味と判断し出すから。これはマジで。

 という訳で、今回はかなり実行が容易そうな計画を立ててみた。まぁ、計画というには余りにもアバウトではあるが。予定は未定とかいう言葉もあるし、それくらいで丁度いいのだ。それに日々のオナニーはDo出来ている*1のだ。それを少し発展させるだけなのだから、夏休みの宿題だとか、卒業論文だとか、職場環境の改善だとかよりは実現の可能性は高い。

 という訳で、まずは一週間ほどオナニーをする際は意識をしてなるべく質の高いオナニーをするようにしてみようと思う。一週間ほど続けて「実行出来たか」「何か変化はあったか」などを振り返ってみる。しかし、オナニーというのは高まった性欲の捌け口であるので、する時に「計画」という極めて理性的な要素を念頭に置いておけるかはかなり怪しいと、やる前から思っている自分もいる。どうなるだろうか。

*1:ここでは“射精出来ればオナニーが出来た”とみなす

自分のオナニーすら語れなかった。

 最近のオナニーについて書こうと思ったのですが、書き始めてから特筆するべきようなオナニーをしていないことに気が付きました。そこから「なぜ特筆するべきことがないのにブログを書こうとするのか」を自分なりに考えてみました。考えてみた結果、最終的にはインターネットにありもしない救いを求めているという結論に至りました。もしくは、無理矢理「自分は救いを求めているんだ」という結論で妥協しました。もういいです。

 

 

 オナニーサイクルに依然として変化無し。オカズの内容についても特筆すべきことは無い。勿論、(あえて書くと余計に誤解を招きそうではあるが)「特筆すべきことはない」というのはオカズにした作品が凡庸で語るに値しないという訳ではない。どのオカズも自分を射精まで導いたのだから、素晴らしい作品だ。ただ、どの作品も“普通に素晴らしくて”*1今さら自分がわざわざ語る必要がないというだけだ。むしろ、知識に乏しい自分じゃ語れない、というのは一昨日*2の日記に書いた。別段お世話になったオカズについて一切語ってはいけない訳ではないのだが、何となく今は憚られるのでやめておく。

 これも件の日記に書いたこととの繰り返しになるのだが、 やはりこんな知識もなく思い付いたことをただ吐き出している個人のブログにおいてわざわざ客観的な視点から既に一定の評価がされている作品について語るのはあまりにも意味がない。それもわざわざ、ムリをして他人の目に留まりそうな流行りの語句を駆使して書くなんて、本当に何の意味があるのだろうか。“中高生の背伸び”なら微笑ましいが、大人の背はもう伸びない。みっともないし、恥ずかしくなる前に止めるべきである。

 

(偉そうに説教じみた文章を並べたが、全ては“自戒を込めて”だ。自分自身に対するブーメランなのだ。だから気にしないでほしい。今は過去の自分の書いたブログがただただ恥ずかしい。でも、消すのは何か嫌なので残している。)

 

 オカズは素晴らしかった。それが自分のオナニーにとってどう素晴らしかったのかなら背伸びをせずに書けそうだ。ただ、今はそれについても語る気になれない。それは単純に最近の自分の日々のオナニーが平凡だからだろう。特筆すべきことがないのは自分のオナニーの方、だったという訳だ。

 特筆すべきものはないのに、何故文章を書き始めたのだろうか。おかしな話である。話したいが、話題がない。或いは話題がないのに、話をしたいような状態である。

 そこには、もしかしたら、ひょっとして、自分のオナニーは特殊かもしれないという期待があったのではないか。いや、自分のオナニーを「特殊だと思ってもらいたい」というずうずうしい願望を持っていたのではないか。

 人は(主語を大きくするのはよくないが)、心のどこかで自分に特別な才能や要素があると思っているフシがある。しかし、大抵そんなものはなく、平凡、或いは平凡にも満たない存在だ。頭ではそれが解っていても、それを心から認めることは難しい。自分が平凡な人間だと心から認められる凡人はある意味すごい。自分への期待を一切捨てて、ただまともに日々を生きていく。それはストイックな生き方と言ってもいいのではないかと思う。自分には出来ない。

 自分は日常の、あるいは人生の、あらゆる場面で自分が凡人かそれ以下の存在であるという事実を突き付けられてもなお、自分に対して何らかの期待を抱いている。「もしかしたら、俺は結構すごいんじゃないか」「もしかしたら、俺はクリエイティブな仕事ができるんじゃないか」等と……。

 

 暗い話になった。しかし、事実だ。自分の日常は良くて平凡なシーンの連続だ。それを無理矢理、エピソードとしてブログに仕立て上げようとしている。特筆すべきことのない日常を認めようとせずにブログに晒そうとしている。ブログにさえすれば平凡以下の日常がコンテンツ足り得るものになると勘違いしている。

 わざわざ自分の外に出して、人に見せるようなことじゃない文章を世に出している申し訳なさがある。ただ、自分の中の鬱屈を吐き出すことによって少しでも自分が楽になりたいという思いがある。そういう自由は万人にある。その為に恐らく誰も見ないようなブログを作るサービスがある。と思っている。問題なのは、それをコンテンツ化しようとする烏滸がましさにある。いや、コンテンツ化させるという努力があればまだいい。あわよくば、コンテンツにならねぇなかなぁ……という甘い期待こそが癌なのだ。

「人間は自分で思っている以上に他人に気にされていない。」という事実は常に心に刻み付けておかねばならない。刻み付けつつも、自分のことだけを外部に吐き出し続けることで少しでも自分自身を救済したい。辛くても黙々とやっていきたい。石窟の奥で石壁に向かって呟き続けるような孤独に耐えようと思う。

 

 

 オナニーの話はまた今度にする。

*1:この“普通に素晴らしい”という表現も大概知能が感じられない言葉遣いだと思う。

*2:2019/10/23

冷静に考えれば独り言をインターネットに流すとか露出狂でしかない。

 自慰の話をしようと思ったんですけど、最近考えていること(を自分の脳内から外に出すこと)についての話になってしまいました。別の意味でオナニーですね。ブログは常にオナニーだから同じですけど。

 

 オナニーのサイクルに変化はない。今朝*1も一発出してから家を出た。

 昨夜は明日が仕事だというのに、かなり夜更かしをしてしまった。人生が一番楽しかった時代に出来た友人とのふれあいだったから仕方がないと思う。そんな友人との関係も互いに社会人になってからは悪い方向に傾いてしまったと思うのが最近の、いやもうここ2年くらいの悩みだ。恐らく原因は自分にある。自分が、社会人になったことで受けたストレスを学生の頃と同じように彼らに吐いてしまったから、彼らは気分を害してしまったのだ。彼らもまた社会人になり、余裕がなくなっているのだ。そのことを失念していた自分が悪い。反省しても遅い気がするが。

 やはり、社会に出るのは良くない。人は社会に傷つけられ、やがて殺される。とはいえ、別に今ここで社会批判をしたい訳ではないので、ここらで止めにしておく。友人との関係の話だって本題ではない。ただ、指に任せていたら打ち込まれていただけだ。でも、友人との関係の悩みを友達に話す訳にはいかないじゃないですか。結局はこうやってブログに書くか、夜道を歩きながらぶつぶつと声に出して暗闇相手にトークショーするかの違いしかない。誰かに見つかったら不審者扱い待った無しだろうが、そんなことは知ったことではない。口が勝手に声にして話すのだから。というか、もうぶっちゃけ不審者でもいい。多分、暗い夜道でぶつぶつと独り言を言ってはいけないみたいな法律はなかったと思うし、何も法律に触れてなくて、もう本人がそれでいいならいいだろ。

 こういうことは自分の頭の中だけに留めておけというのが社会からの通達か。いや、これでもかなり自分の中だけに抑えられるようになった方だ。小学生の頃なんて、思ったこと全部口に出してたぞ。それで「自分の意見をはっきり言えて偉い」とか褒められた。それが今では空気を読んで黙っていてもちっとも褒められやしないんだから、人生は辛いと思う。

 何の話だ。まぁ、その定期的に思ったことを「発表」しないとやってられないなってことだ。わざわざブログにしなくても、世の中にはそれ用のサービスもある。Twitterと言うのだが、これはダメだ。既に繋がりすぎている。具体的には件の友人数人とは相互フォローされている。相互監視とも言う。だから、まぁダメなのだ。とりあえず、友人達とは少しだけ距離を取ろうと思う。今までの関係を続けたいからこそ、ちょっとだけ繋がりを解く。

 ちなみに言えば、件の友人達にはこのブログの存在も作った時に言ってしまった、むしろ「ブログ作ったから見て」とまで言ってしまったからバレている。当時の自分を張り倒してやりたいが、そういうものなのであまり責めてやるでない。まぁ、今や多分誰も見てはいないはずなので、言わなきゃしばらくはバレないだろう。バレる頃にはバレても構わなくなってるハズだ。

「誰も見ていない」。そうだ。自分の中の考えを言葉にして外に発するだけなら、自分のPCの中のメモ帳にでも書き留めておけばいい。そうすれば誰にも見られる心配もない。それを何故わざわざインターネットに放流してしまうのか。それはきっと、見られたくないと思いつつ、見られたくもあるのだと思う。自分をよく知る近しい人には見られたくないが、自分を全く知らないどこか遠いところの人には見られたいのだ。見られてあわよくば、言及されたい。そういう欲が満ち満ちている。

 自己顕示欲、一般的には忌まわしいものとされる欲求。それに囚われているのだ。露出狂……そう言ってもいいのかもしれない。インターネットに何かを放つ人間は総じて露出狂の気がある。持論だ。

 露出狂と言えば、夜道で独りぶつぶつやるのも露出と言えば露出だ。出すのが言葉か性器かの違いしかない。ある意味言葉の方がより自分のありのままの姿であり、外に出すには憚られるものかもしれない。そして、夜道でぶつぶつやりながら、それを誰かに聞かれてしまいたいと、ふとした瞬間に思ってしまう。それはすぐに自ら否定するのだが、全て聞いているのは道中の家々のコンクリート壁だけだ。無論、コンクリートは何も言わない。何を言っても反応がない。冷静に考えればそこには虚しさしかないことは当たり前に理解できるが、精神が不安定な時などは実際にやらかしてみるまで気付けない。

 

 誰にも聞かせるべきではない話を語っている。近しい人に「聞いた」と言われれば死ぬほど恥ずかしい内容なのに、全世界に発信している。聞かれたくないのに、聞いて欲しい。二つの感情が自分の中のでせめぎ合うのを遠くに眺めつつ、実はもう勝負がついていることからは目を背けている。

 聞いて欲しい。もしかしたら、誰かが聞いているかもしれないという、一抹の希望を抱いてしまっている。もう、暗闇やコンクリート壁にお相手は務まらない。

*1:2019年10月23日(水